「 アラーム 」

 



「もしもし・・・もしもしっ」
 雑踏の中で、私は微かに耳に届く声に必死になって声を掛ける。相手の声を聞き取ろうと、右手で握り締めた携帯電話をぎゅっと耳に押しあてる。
 切れないで。切らないで。
 そう願いながら、何度も声を掛ける。
 人混みをすり抜けながら、少しでも電波の良い方へ。誰かの肩にぶつかっても、点滅の信号で飛び出していっても、そんなこと少しも気にならないくらいに、私の気持ちは耳に届く『微かな声』に向かっている。
 点滅の信号は、気持ちまで焦らせる。同じように飛び出してきた人たちも、また焦っているのだろうか。
「もしもしっ」
 ふっと雑音とともに電話の向こうの気配が消えた。慌てて声を掛けると、目の前の信号が無視できない赤色に変わる。しかたなしに足を止めて電話の向こうをうかがうと、どうやら絹の糸のように細い電波がかろうじて二人を繋いでいた。
 目の前の歩行者信号は、まるでこの電話の向こうにいる人みたいに、機嫌の悪そうな色に見えた。
 携帯電話の向こうの音が、通話状態が最悪であることを知らせるアラームにかき消える。
 こんな機能、ちっとも便利じゃないっ。
 苛つきながら、何度目かの『もしもし』をつぶやく。
「・・・いいよ。また掛ける」
 やっと聞こえた声が、呆れたように、諦めたように響く。
「待って!」
 そう声を掛けるのと、青色に変わった信号へ飛び出すのとが同時だった。青色の信号が人々に進めの合図を出し、彼らが出した一歩よりも早く飛び出していく。アラームだけが、ぴぴぴっ。ぴぴぴっ。と律儀に繰り返される。先程よりも、ずっとずっと電波不良である事を告げるアラームは途切れることなく鳴り続ける。
 待って、あと少しだけ待ってよ。電波! 
 この先の公園は静かだし、電波も良い。だからちょっと、あとちょっとだけこのままでいて。ほんの少し、あと100メートル。
 そうしたらきっと、アラームも止んであなたの声が聞こえるはず。
 はぁ。はぁ。
 こんな時ばっかり恨むのは、日頃の運動不足。あぁ、もう少し運動しておけば良かったなんて、ありきたりでつまらなく心の中で呟きながら、必死で走っていく。おぼつかない足取りでなんとか走っていくと、目の前に緑に囲まれた公園が目に付いた。緑色の枝が風に揺れているのが見え、噴水の音が聞こえる。
 心の奥でほっとして入り口駆け抜けると、目の前に水を舞いあげる噴水が見えた。

 ・・・着いたぁ。

 そう思って一息つくのと、もう何度もつぶやいている『もしもし』が一緒だった。
「・・・も・・・もしもしっ?」
 まだ繋がってるよね?
 息も絶え絶えで、言葉にならずに心の中で付け加えると、それに答えるように面倒臭そうな声が聞こえた。
「・・・あぁ」
 不機嫌を通り越して、無表情な声。
 ふっと安心してがっくりとベンチに腰を下ろす。ため息さえまともにつけない荒い息の中、よかったぁ。も声にならない。
 はぁ。はぁ。
 今度はアラームよりも、自分の呼吸の荒さに阻まれて、声が遠い。
「・・・ばぁ〜か」
 呆れた声が、のんびりと届く。
 彼の声は好き。ゆっくりで、のんびりで、ちょうどいい低さが耳に心地よい声。その声は、いつも私を落ち着かせてくれる安らかな音。
 だけど・・・だけど、心臓がバクバクして、息が上がって声にならない。今だけは落ち着かないよ。
 落ち着きたいのに、落ち着かない。もどかしくて、もう『もしもし』さえ言えない。
「かけ直すって、言っただろう?」
 ふてくされた声が、さっきよりもずっと、はっきりと耳に届く。
 だって・・・。
 はぁ。はぁ。
 呼吸の荒さで答えてみても、きっと何にも伝わらない。
「だ・・・って」
 こんな時「またかける」なんて言葉、洒落にも、あてにもならない。
 大ゲンカの最中に。『じゃ、な』なんて、捨てゼリフのあとに。
 泣いてる暇もないじゃない。言い訳する暇も、言い返す暇も与えられないで『じゃ、な』なんて。
「卑怯だ。そんなの」
 それだけは、はっきりと言葉になった。
「なにが卑怯なんだよ」
 ムッとしただろう彼の怒りが伝わってくる。
 さぁぁっ。という、木々が風に揺れる音とともに、冷たい風が流れてきた。乱れた髪を風が吹き流していく。涼しい風が額にかいた汗を乾かした。風の冷たさにふっと顔を上げると、もくもくと雲が太陽を覆い始めていた。
「私、言いたいことも、聞きたいことも、そういうの全部簡単に切り上げられるのって嫌。そんなの卑怯だよ。そんなの、勝手すぎるよ」
 落ち着いてきた鼓動が、今度は妙な胸騒ぎとともに高鳴っていく。電波不良を告げるアラームのように、規則正しく、だけど急ぎ足で危険を知らせる。
 ケンカは大嫌いだ。胸の中が不安で一杯になるから。言いたいことで一杯になって、言えない不満で一杯になって、私の中はいっぱいいっぱいで、それなのにそんな風に言われるから、もっと嫌。
 どうして、うまく伝えられないんだろう。
 ・・・どうして、ケンカになっちゃうんだろう。
「・・・何が勝手だよ。かけ直すって言ってるんだから、待っていれば良かっただろ」
 何も、馬鹿みたいにダッシュしなくたって良かったんだ。
 ふてくされて、そんな風に言うのは優しさとは受け取れない。電波が好調になるまでにかけた時間が、そのために走った労力が少しも報われずにつき返された。
「だって、だって私、言いかけてたじゃない」
 そう。それなのに、勝手に切り上げられた。電波が悪いせいにされて。
 本当は、私の話なんて聞きたくないんじゃないの?
 あれこれ言い返されるのが嫌だったんじゃないの?
 自分の意見を通したかっただけなんじゃないの?

 だから悔しくて、走った。
 電波のせいになんてさせない。この電話を切らせない。
「最後まで、私の話を聞け!!」
 心の声が、今はっきりと言葉になった。
「・・・じゃ、どうぞ」
 不機嫌極まりないという彼の声が、鼓膜に突き刺さる。冷たい響きの声が、私の心を揺さぶって泣きそうになる。
 どうしていつも怒られるんだろう。
 どうしていつも、私ばっかり?そういう不満が渦巻いて・・・。
 言いたい事を言わなきゃ怒られ損じゃない!
 私は思い切り息を吸い込んだ。言ってやるんだ、ばしっとね。ばしっと。
「・・・」
 電話の向こうでは、私の言葉を待っているであろう彼の押し殺したような微かなため息が聞えた。馬鹿みたいに、ずっと黙ったまま私の言葉を待っている。優しいんだか、意地悪なんだかさっぱりわからない。
「私・・・さぁ」
 勢いに任せてそこまで言うと、はっとする。
 ・・・なんでケンカしてたんだっけ?
「・・・えーっと、あのー」
 怒りが走るパワーに替わって、私をここまで走らせた。もう我慢ならない!っていうくらい、むかついてたんだ。イライラしてたんだ。すごく悲しくて、これだけは言ってやろう。言わずには言われないわって、そういう気持ちでずっと走ってきたのに。その気持ちが、走ってきたことでまたばらばらになってしまった気がした。
 これだ!っていう一言を紡ぎ出すのに、ほんの少し言葉がとまった。
「・・・やめない?くだらないことでケンカするの」
 こちらが言い淀んでいると、彼が呆れた様にため息をついて言った。
 くだらないですってぇ?
 かちん。ときて思い出した。さっきも、人の話を全然聞かなかったからケンカになったんだった!
「ほら!やっぱり人の話を聞かないじゃない!!自分のいい様に切り上げて!」
「またその話かよ」
 うんざりといった感じで、彼は言う。
「また。じゃないでしょ!あなたがいつもそうだからじゃない!」
 ははぁ。ってはっきりと聞えるくらい、大きなため息をわざとらしくついて、私の言葉をはぐらかしたように聞えた。ひどくそっけなくて、突き放された気がした。事実、それきり彼は口を噤んで、私は彼が投げつけたため息にがっくりと肩を落として黙り込んだ。
 やっぱり、そうなんじゃない。言いたいこと、言えずに終わっちゃう。
 なんか、今。すごく気持ちが寂しくなった。この電話の向こうには彼がいるのに・・・すごい寂しいよ。心の中がざわざわして、私は悲しみがこみ上げてきて苦しくなった。
 涙が出そう・・・。
 ぎゅっと唇をかみ締めて、泣かないって決めた。負けたくない。そう思って。だって私は、あなたに言いたいことがあって、ここまで走ってきたんだから。
 心の中では、危険信号を知らせるアラームみたいに、心臓がきゅっとなる。
「言いたいことがあるなら、早く言えよ」
 こちらの気配を窺うように、彼は冷たく言った。
「・・・」
 ふと視線を上げると、さっきよりずっとどんよりとした雲が空を覆っている。
 寂しいと思う。そんな言われ方。すごく、すごく寂しい。寂しすぎて、私はこの人になにも言うことなんてないって思う。この人の為に思っていたいろんなものが、一瞬にして無意味なものになった気がしたから。
「雨が降るだろ」
 ・・・だから、なに。
 小さな声でそう聞き返すと、本気で怒った彼が言った。
「お前が濡れるだろうと思って言ってるんだろ!言うこと言って、早く家に帰れよ。どうせ傘を持って出かけてないんだろ」
「・・・何それ、優しさ?」
 思わず聞き返してしまう。
 そうだとしたら、最低最悪の優しさだと思った。そうじゃないのだとしたら、最低最悪の嫌味だと思った。どっちにしたって、今の私には最低最悪。
 もう、私のアラームは鳴りっぱなしなんだから。あなたに対して、危険信号が出てる。心が少しだけ、あなたを嫌いになりかけてる。あなたはこの危機的状況に気づきもしない。
 私のことなんて・・・少しも気づいてくれない。

「まだ公園なんだろ?」
「そうよっ」
 ふてくされてそういうと、電話の向こうで憤慨した彼のため息が響く。
「・・・切るよ」
 そういって、こちらが何かを言う前にぷつりと電話が切れた。
 もう切ろうと、そう思っていた。だけど、先に切られるとは思わなかったから、妙に悔しい。
 なんなの、あいつ!なんなの!
 なんなの!

 ・・・寂しいよぉ。

 ぽつり、ぽつりと雨が落ちてくる。その場から動こうとするけれど、私の体は固まったみたいに動けない。携帯電話を握り締めたまま、ベンチに座って噴水を見つめていた。
 携帯電話のディスプレイが雨に濡れていく。壊れちゃうのかなぁ。携帯。
 そんな風にぼんやりと思いながら、でも壊れたらもう連絡しなくても良いのかなぁ?もう怒られなくて良いのかな?
 ・・・そんな風に考えてしまった。
 スカートが雨を吸ってじっとりと肌に張り付いている、前髪からは雨のしずくがぽたぽたと落ちていく。
 冷たい雨だった。心の底まで冷えてしまいそうに、冷たい雨だった。噴水が吹き上げるしぶきが、雨粒とぶつかって一層激しい雨音が聞える。
 それを、じっと聞いていた。
「なにやってんだよ!!」
 突然、怒鳴られてその方を見ると、そこには彼が立っていた。畳んだままのビニール傘を片手に、私の目の前に。
 それはもう、今までに見たことがないくらい怒った顔で。
「・・・だって」
 寒さに唇が震えた。
 こんなに体が冷え切ってしまっていたなんて。それに気がつくと、急に私の体はがたがたと震えだした。この雨の中、ずっとここにいたなんて。急激に寒さが体を襲う。
「だって・・・動けなかったんだもの。少しだってこの場を動けなかったんだもの」
 怖くて・・・。
 あなたに嫌われたと思うと、怖くて目の前が真っ暗だったの・・・。
「馬鹿!」
 怖い顔のまま、私の手を引いて彼は歩き出す。怒ったようにぐいぐいと私を引いて歩く彼の後姿は、私のスカートと同じくらい、雨を吸って重たくなっていた。重たいスニーカーを引きずるようにして、彼は歩く。
「傘・・・させばいいのに」
 ぽつりと呟くと、彼は前を向いて歩きながら言った。
「お前が濡れてると思ったから」
 傘持ってきたけど、させなかった。
 そう怒ったように言う彼の背中が、いとおしかった。
 彼もまたずぶ濡れだった。歩くたびに妙な音を立てるスニーカーが、べっとりと足にまとわりつくジーンズが、彼の優しさに見えた。
 どきどきと、鼓動がアラームを鳴らす。
 私は彼が好き。きっとこれからも、私は彼が好き。
「・・・好きだよ」
 ゴメンねって、素直に謝れなくてごめんなさい。だけど今、一番言いたい言葉はこれ以外にない。
 この言葉は、きちんと聞いてくれた?
「・・・あぁ」
 不機嫌に彼は、そっけなく頷いた。好きだよって。言葉の答えにはならない。
 まだ怒ってるのかな?
 まだ不機嫌なのかな?

 でも、不思議と私のアラームが落ち着いてくる。
 ねぇ、今度はあなたの近くでケンカをしたい。
 そうしたら今度は、もっとあなたを感じられるのかな。
 もっと、言いたい事を言えるのかな。
 
 心のアラームが聞えるくらいに、近くで。
 ケンカをしようね。



あとがき

 

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