【Hiiro's room】 20001HIT記念。キリリク作品。
to yonnkisuto【小説工房エスタブリッシュ】

 

『通り雨』

 



 ぱたぱたと雨がフロントガラスを叩いていた。
 薄闇が迫ってきた夕方。僕は路肩に車を止めていた。 
 降り出したばかりの雨は、勢いも可愛らしく、乾いたフロントガラスの上にぱたりと雫を散らしていく。
 ぱたりと一粒、ぱたりと二粒。
 次第にフロントガラス一面に雨粒の模様が広がった頃、行過ぎる人々の様々な色合いの傘が流れていくのが見えた。
 外は冷え込んでいた。車内との気温差で窓はあっという間に白く煙る。それを指先で拭いながら外を伺う。
 急ぎ足で行過ぎる人々と、傘の波。
 ばしゃばしゃと音を立てる水溜りと、ざばんと過ぎていく車が立てる水飛沫。
 外界から遮断された車内には、少し効きすぎたエアコンと、掛けっぱなしのCDがもたらす穏やかな空間。
 そして、そこに相応しくないくらい逆立った空気を放つ自分。
 煙草を吸おうと、ほんの少し開けた窓から雨粒が吹き込んでくる。強すぎる風が吹き始めた様で、人々は一様に傘を短く抱えるようにして差している。
 かちかちと規則正しい音を立てて、ハザードランプが点滅する。
 無性に、寂しいと感じた。


 ぼんやりと眺めていたテレビで、夕方から雨が降り出すと告げていた。
 そういえば、彼女は傘を持って出ただろうか。
 ふと気になって、出掛けの彼女を思い返す。カシミアの赤いタートルネックのセーターと、それに似合いのこげ茶色のタイトスカート。片手には柔らかな色合いの何かを抱えていた。今日は随分と冷え込んでいたから、コートだったかもしれない。
 玄関口で行ってきますと微笑んだ彼女。その手に傘があったかどうかは思い出せない。
 買い置きの煙草が切れていた事を思い出して、車のキーを掴んで家を出た。
 車を走らせているうちに、どんよりとした雲が更に色味を強め、いつしか重たい灰色に変る。彼方に見えていた夕陽はあっという間に飲み込まれ、辺りは鼠色の世界に変る。
 唐突に迎えに行ったら驚くかもしれない。びっくりした顔で、けれどきっと思いがけないことに喜ぶはず。
 そう信じて、僕は彼女を迎えに出た。


 駅前の書店に彼女は勤めていた。上がりの時間は夕方の五時。書店の前には雨宿りに駆け込む学生達の自転車が列をなしていた。それを縫う様に歩み出る赤いセーター。そしてぱんと勢いよく開いた傘に、滑り込むようにして長身の人影。ひとつの傘に狭そうに身を寄せて、まっすぐ駅へ向かう。
 寄り添って歩くその姿があまりにも親しげで、僕は言葉を失った。
 駅前の通りは夕方の帰宅ラッシュを前に混雑し始めていて、路上駐車していた僕はその混雑に押し出されるように車を走らせた。

 隣に居るのは誰だ?
 親しげに顔を寄せて話をするのは誰だ?

 前もって連絡をしておけばよかった。
 そうすれば彼女は、店から車まで一目散に駆け込んで来たに違いないのだ。
 ありがとうと笑いながら、少し濡れた肩をハンカチで拭ったりしたかもしれない。
 持って行った傘を邪魔そうに、車に乗り込んだかもしれない。
 店先で雨を見つめながら僕を待っていてくれたかもしれない。

 なのに、彼女は傘を差して男と二人歩いて行ってしまった。
 目の前を通り過ぎながら、ルームミラー越しに振り返ってみても、それが誰だか見て取れなかった。
 いや、見えたところで、それが誰だか判ったところで。
 僕にどうしろというのだろう。
 そわそわと落ち着きの無い心臓が、ひやりと胸を刺す。

 まるで逃げるようにして、裏通りへ車を回した。
 忙しい通りから一本奥まった住宅街。自動販売機の明かりが、やけに煩く感じるほどに静かな通り。
 自動販売機の横に車を止め、硬貨を投げるように放り込んで煙草を買う。取り出す際に手間取って、釣りをポケットにねじ込む際に苛ついて。
 僕はどうしようもなく、動揺していた。

 何に?
 彼女の隣を歩いていた男に。

 よく思い出せばよかった。玄関の傘立てに彼女の傘があったかどうか。それを見てから家を出たら、あんな光景は見ずに済んだ。
 見ずに済んだけれど、知るべき現実は見なかった。
 見て良かったのか、見なければ良かったのか。
 そんなことばかりが頭の中を巡っていく。問うべき本質はそこではない。そんなことは判っているのに、そこに辿り着けない。

 何故?
 ・・・怖いから。
 彼女とその男がどういう関係なのか、勘繰ることさえ怖い。

 落ち着かせようと取り出した煙草。咥えると乾いた唇が張り付く。引き剥がすようにして咥え直すと、ライターが無いことに気がつく。忌々しくなって煙草を手の中でひねり潰すと、そのまま灰皿に投げ捨てる。
 窓の隙間から雨粒が飛び込んでくる。頬に触れた冷たさに気がついて、慌てて窓を閉める。
 気がつけば、彼女の好みのCDがエンドレスで流れ続けていた。
 冷え込んだ外気から包んでやろうと温めた車内も、仕事で疲れた彼女を迎えようと掛けていたBGMも。そしてこの唐突の迎えも。
 何もかもが馬鹿らしい。
 あのまま二人がどこかに向かっていたのだとしたら。駅前の通りを二つ奥へ入れば男女が寄り添って入っていきそうな、ホテル街があるのを知っている。
 知らなければ良かったのか、それとも・・・。
 知っていたから何だというのだ。
 助手席のシートに放り出していた携帯を慌てて引き寄せて、リダイヤルボタンを押す。迷うことなく、彼女への繋がろうとする携帯。呼び出し音がはるか遠くから聞えてくるようなもどかしさ。苛立ちながら煙草を取り出して、今度は箱ごとひねり潰して放り出す。

 早く・・・。
 早く出ろって!

 数コール目に、ぷつりと呼び出し音が途絶える。それから微かに彼女の声。強まった雨音に掻き消された小さな声が、それでもにこやかに応答する。
 今は外らしいことが伺える。電話の向こうの喧騒は、駅前の通りらしい騒がしさ。
 雨に濡れたアスファルトの上でも、こつこつと小気味良い音を立てる彼女のローファー。
 どこかにしけこまれたら困ると、慌てて取り上げた携帯とこの電話が瞬く間に虚しさに変る。
 それでもやるせない怒りでどこに居るのだと問いただせば、帰る途中だと返す不思議そうな声。
 迎えに行くからと一言、残してぶつりと電話を切る。電話の向こうで不思議そうに聞き返す彼女の声があっさりと途絶えた。
 規則正しいハザードの音は消え、ボリュームを抑えていたBGMが戻ってくる。引き出していた灰皿を乱暴に元に戻すと、少々暴走気味に車を発進させる。
 動き出したワイパーが、フロントガラスの上を拭っていく。次々に降り注ぐ雨を蹴散らして、僕の前の前に視界を開ける。
 来た道を戻って、駅前の通りへ。
 てくてくと殊更ゆっくり歩く赤いセーターの見慣れた後姿。きょろきょろと辺りを窺う様子と、時折上げられる傘。乱暴な風に煽られて、タイトスカートの裾がほんの少しだけ身じろいだ。
 滑るように車を寄せると同時に、開けた窓から一声掛ける。びくりとして振り返る彼女が、僕の顔を見つけてふんわり笑った。
「煙草、買いに来たついで」
 呟いた一言に、帰ってくる笑顔。
「傘、持って出たの知ってるくせに」
 返ってくる言葉が嬉しさを滲ませている。
 助手席に乗り込んで、彼女は濡れた傘を足元に置いた。彼女のお気に入りのその傘。手にしたのは記憶に無いが、彼女が持って出たと思い込んだものはこれだったか。
 コートでなく傘だったのかと。
 そういえば、その部分だけ記憶が曖昧だったと、気がついた頃には笑い話。
 駅まで同僚を送ったという彼女の話もまた、大層愉快な笑い話。
 ハンドルを握りながら大笑いをする僕に、呆れてため息をつく彼女。
 足元に放り出された潰れた煙草の箱。見つけて今度は大笑いした彼女。堪らずに苦い顔をする僕を見て、またけらけらと声を上げる。
 再びあの自動販売機の横へ車を寄せると、ポケットの中の小銭を取り出す暇さえ与えずに、するり雨の中へ赤いセーターの後姿。
 迷わず押すボタンも、手際よく回収する釣りも見事な手付きで、するり再び彼女が戻る。
 手渡された煙草を受け取ると、にんまり笑う悪戯っぽい笑顔。
 雨に濡れて重くなった彼女の前髪をかき上げて、愛しさに負けて唇を奪う。

 ぱたりぱたりと雨音の中。
 繰り返すハザードランプの音と、驚いた彼女が漏らす吐息。
 二人分の熱で曇った車内には、心地よいBGMが作る幸せな空間。
 にわかに上昇し始めた車内の温度。入れ替えるかのように窓を開ける彼女。
 吹き込む風雨にしかめ面をしながら、BGMに合わせて口ずさむ歌。

 なんて事は無いただの思い過ごしと、通り雨。
 こんな日があってもいいと、そう思える瞬間がそこにあった。

あとがき

 

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