『姫に効く薬』 〜[wake up!] 番外編 〜
「お前、最近太ったんじゃねぇの?」 遼一が、豪快にご飯をかき込みながら七瀬に言った。 昼休みの賑やかな食堂で、その場にいた全員が、その言葉が宙ぶらりんに聞こえていた。 答える相手がいなかったから。 遼一の言う『お前』が誰を指すものなのか、知っていても。 当の本人が、黙々とクリームパンと格闘していたから。 遼一の言葉に誰も返事をしない、みんなの視線はあるひとつの方向に向かっている。 七瀬がふと顔を上げて辺りを見回す。 どうやら自分に対して投げかけられたのかと、ようやく判断が付いたのだろうか。遼一を見上げ、七瀬は憂鬱そうに首を振った。 昼休み、食堂でいつものメンバーが勢揃いした。 いつもは騒がしいと食堂を毛嫌いしていた一輝が、珍しく食堂の定食が食べたいとつぶやいた。 最近の一輝はやたらと暗い。いつもの減らず口もなく、情緒不安定らしい。 たまに食堂で食事をとることが気分転換になるかも知れないと、ひさしぶりに連れ出した。 「七瀬、まずいんじゃねぇの?」 こんな人の多いところに連れ出して。 裕史がほんの少し心配そうに言う。自分の後ろを歩いてくる一輝にちらりと視線を送りながら。 「いいんじゃないか。たまには」 あっさりと、七瀬は言い切る。 人気者の一輝を教室の外へ連れ出すことは、騒ぎの元になる。一輝自身が、それを何とも思わないのなら別に構わない。メンバーも、それについては多少騒がしいと思う程度で、気にしているわけではないから。 裕史が心配しているのは、タチの悪ファンに一輝が襲われてしまうんじゃないかと言うこと、最近様子のおかしい一輝には、その騒がしさが毒なんじゃないかと言うこと。 それら全部をわかった上で、七瀬ははっきりと、言い切った。 いつもなら、そう心配するのは七瀬の役割だった。その七瀬が進んで一輝の食堂行きを認め、こうして連れてきている。 だから、いつもはおおらかに構えている裕史も、心配してしまうのだ。 「裕史、購買へ買いだし頼むぞ」 いつものやつ、忘れるなよ。 腑に落ちない気持ちを抱えながらも、裕史は頷く。 七瀬が言うなら、大丈夫だろう。何かがあれば、俺らが対処すれば良い。 そう思って、裕史は人だかりの中に身を滑り込ませる。 人混みをかき分けながら、七瀬は思っている。 久しぶりに、賑やかな昼食だ。 七瀬は、少しだけ期待した。 一輝姫のご機嫌が戻ればいいのに・・・。 食堂の喧噪は、久しぶりの一輝の気持ちを少しだけ上向かせたようだ。久しぶりの学食も、喧噪も、一輝から憂鬱な空気をぬぐい去った。 満腹が心地よい眠気を誘っているのだろうか、食事を終えた一輝はとろんとした目をしている。いつもの眠気に襲われかけているのを見ると、裕史が一輝にクリームパンを差し出す。 「おい、姫。今日は絶対起きてろよ。5時限は高橋だからな」 裕史は念を押すように言った。 「・・・わかってる」 眠そうな顔をしながら、一輝はクリームパンに手を伸ばす。ぱん。と袋を割り、無表情で口に運ぶ。恐ろしく不機嫌な顔で。 七瀬はクリームパンを片手に、ため息をついた。一輝の不機嫌な顔に負けず劣らずの不機嫌さで。 手元に残っているのは、あと二口分。さっきまでは半分以上残っていたクリームパンを、何とかここまで片づけた。 そのクリームパンは、一輝の元から、半ば押しつけられるようにして七瀬の元へやって来た。 クリームパンは好きだ。菓子パンの中で一番。 その七瀬が、大好きなクリームパンを前にため息をついてしまう。 いくらクリームパン好きでも、こう毎日続くとさすがに嫌気も差してくる。自分の食事はすでに平らげた後で、お腹だって満足しているのだ。今日の食事はミックスフライ定食。ボリュームが多すぎた。 クリームパンを前に、七瀬は憂鬱な表情を隠しきれない。 昼休みももう終わろうとしている。 七瀬はふと視線を送る。さっきまで、一輝が眠そうにテーブルに伏せていたその場所を。 眠そうにしていたのかと思うと、いきなり何かを見つけて食堂を飛び出していったのだ。 誰のせいで、クリームパンと格闘していると思っているんだ。少しは、責任を感じろ。 飛び出していった一輝には、七瀬の怒りは届かない。 人が心配しているのも知らないで。 最近、情緒不安定気味の姫は、七瀬の手を焼かせっぱなしだ。そして、押しつけられたクリームパンも七瀬を困らせている。そんな七瀬に、追い打ちをかけるように憂鬱にしたのは、遼一の一言だった。 久しぶりの食堂で、これまた久しぶりに遼一と会った。別棟の校舎に別れて以来、遼一と校内で出会うことは久しくなっていた。 だから、いつもよりずっと賑やかな食事だった。 その気分をぶち壊すように、席に着くなり遼一は唐突にそう言ったのだった。 お前、最近太ったんじゃねぇの?と。 「原因は、クリームパンか?そりゃぁ、笑えるな」 まさか。 七瀬は信じられない思いで、自分の頬に触れる。 「遼一の気のせいだろ。嫌なことを言うなよ」 そう言いながらも、最近妙に身体が重いような気がしていた七瀬は、内心ひやっとする。 「それ、いつものあれだろ?一輝の眠気覚まし」 七瀬の動揺に気がつかないのか、暢気な声を出して訊ねる。 答えるかわりに、七瀬は深いため息をつく。七瀬のため息は、かなり重たい。 ・・・本当に、うんざりだ。 「一輝、甘いもの大嫌いだもんな。嫌いなもの口に入れた時の一輝の反応、最高に笑える。目覚ましに使えるって判ったのは、いつだったっけ?」 遼一は口の中を吹き出しそうになりながら、思い出し笑いを続けている。 「一輝君の甘いモノ嫌いって、ちょっと極端だもんね」 信也がけらけらと軽い声で笑う。 一輝は、甘いモノが大嫌いである。キャンディ一粒でも、砂糖一さじでも、缶コーヒーでも吐き出してしまう。甘い。と味覚が感じた時点で、一輝にとっては食べ物として認識されない。 だが、その極端な好みが、役に立つときがある。 一輝に眠気が襲ってきている時、最高の眠気覚ましになるのだ。 ある時、どうしても起きない一輝の口に、裕史がふざけ半分でチョコレートをひとかけら口に押し込んだ。すぐにでも吐き出すかと思ったら、なんと、もぐもぐと口を動かし食べたのだ。普段なら、絶対に吐き出している。あの一輝が。その反応に驚き、裕史が調子に乗ってどんどん口に放り込む。一輝は嫌悪感も表さずに、ただただ無表情でチョコレートを平らげる。 いつになったら怒るのだろうか?誰もが息を呑んで見守った。 チョコレートをまるまる一枚食べきると、口の周りをチョコレートだらけにして、一輝はゆっくりと起きあがった。 口元を抑え、今にも吐き出しそうな顔をして。 たたき起こすよりもずっと、被害のない寝起きだった。 ・・・一輝以外には。 それ以来、眠気覚ましに昼休みには必ず甘いモノを食べることになっている。 それはかなり良い効果を見せているようで、日比野家でも実戦しているらしい。 「クリームパンは、一輝のいい眠気覚ましだな」 遼一はそう締めくくり、お茶を飲み干した。 だが、その眠気覚ましにはひとつだけ、難点がある。大嫌いなクリームパンを、一輝は食べきることが出来ないのだ。あたりまえといえば・・・あたりまえな結果なのだが。 そして片づけ係の七瀬は、メンバーただ一人の犠牲者だ。メンバーの中で甘いものが好きなのは、七瀬ただ一人なのだ。一見、クリームパンが好きそうな信也は、実は菓子パンの類が苦手である。 逆に、そう見られない七瀬は、実はクリームパンが好きだったりするのだ。 「アンパンでもピーナツクリームでも何でも良いんじゃねぇの?甘いもんなら。その辺もあれか?お姫様のワガママか?」 わらわは、クリームパンが食べたいのじゃ。ってか? 手のひらを扇のように揺り動かしながら、遼一は気持ちの悪い声を出す。 「・・・それ、お姫様のつもり?なんか時代錯誤」 信也のツッコミに、遼一は恥ずかしそうにこほんと咳をした。 それから、恥ずかしさを紛らわすかのように、七瀬の手からクリームパンを取りあげると、ぎゅっと口の中に押し込んだ。そのままもぐもぐと口を動かしながら、きょろきょろと辺りを窺う。 どうやら、ほかの人に聞かれたんじゃないかと心配をしているらしい。 遼一は、相変わらずどこかおかしい。 裕史と張るくらいの、ぼけっぷりだと思う。 「あのやたらと黄色いクリームの色と、まったりとからみつく舌触りが、一輝姫はお気に召さないそうだ」 苦笑しながら、七瀬は答える。 「そりゃぁ、笑える。あいつらしい」 もう口の中は空になっているらしい、遼一は豪快に歯を見せて笑った。 「たまに食うと、クリームパンも美味いな」 すでにいっぱいいっぱいだった七瀬とは対照的に、遼一は物足りなかったらしい。名残惜しそうに、クリームパンの袋を手でもてあそんでいる。 「そういえば、一輝も慶司もなんか変じゃねえ?最近なんかあったのか?」 最近、俺はのけ者っぽいし。 袋に勢い良く空気を吹き込み、ぱんっと割ると、遼一はふてくされ気味で訊ねる。 みんなにからかわれたのが気に入らなくて席を立った慶司。 眠そうにしていたかと思うと、突然飛び出していった一輝。 最近の事情が判らない遼一としては、納得いかないのも仕方がない。 「・・・さぁね」 クリームパンから解放されて、やっと一息ついた七瀬は曖昧に答えた。 「信也、なんか知ってるか?」 訊ねられた信也は、やっと食事を平らげ、ぺこりとお膳に頭を下げた。 「さぁ?今日の定食が肉じゃがじゃなかったから、機嫌悪かったのかな?」 ボク、今日のフライ美味しかったよ。 少し首を傾げて、信也は言った。 「・・・お前じゃ埒があかねぇ」 呆れたように遼一は苦笑いをする。 「相変わらず、遼一君は失礼だなぁ」 信也がふてくされたようにいう。 「ぼくが思うに、一輝君はクリームパンで気持ち悪かっただけだよ。そっとして置いたら?」 いたずらっぽい瞳で、信也が冗談を言う。 「・・・そうか?」 遼一はそれで納得したようだった。 最近の一輝に、何かあるに違いない。信也もきっと、気がついているに違いない。 信也らしい意地悪のつもりなんだろう。 何にも気付かない、鈍感な遼一に。 「クリームパンの威力は絶大だもんな、そうかそうかぁ」 満腹になった遼一は、これまた豪快にがちゃがちゃと食器を片づける。 いつの間に、食い終わったんだ??? 遼一がテーブルについてまだ10分も経っていない。食事の遅い信也が、さっきやっと箸を置いたというのに、遼一の皿は空になっている。あまりの早さに、信也も驚いている。話をしていて気がつかなかった。 まったく、食事を楽しめ。 「クリームパン、ごちそーさんっ」 慌ただしく立ち上がると、遼一は片足で器用に椅子を戻す。 「行儀悪いよ、遼一君」 眉をしかめた信也の言葉をあっさり無視すると、ところで・・・。と遼一は珍しく難しい顔をして言った。 「・・・いつのまに、一輝はお姫様なんだ?」 信也は椅子から転げ落ちそうになりながら、けらけらと軽い笑い声を立てていた。 遼一のマイペースさには、信也でさえ笑えるらしい。 それはそれは、久しぶりに楽しい昼休みだった。 「ま、いっか。クリームパンと相性の悪い一輝によろしくな」 俺達の白雪姫には、クリームパンの気付け薬が一番効果的らしい。 そして・・・。 俺の胃もたれに効く薬は、今のところ無い。 そして・・・。 遼一のボケに効く薬も、今のところ無いらしい。 けらけらと笑い声が止まない信也が、苦しそうに七瀬の腕を掴む。 信也の笑い上戸に効く薬も、ないだろうなぁ。 |