「 初 雪 」

 



 空からふわり白いものが降り立つ。
 ふわり、ふわり次第に数を増していく。
 先程まで降っていた雨が突然、ぼたりと重たい音を立て始めたと思うと、そのすぐ後から形を変え始めた。
 吐き出す白い息に触れ、すうと消えていく。
 ふわり舞い降りた白いものは、濡れた地面に落ちた瞬間しゅわりと消えた。
「雪・・・」
 隣を歩いていた彼女が、ふいに足を止めてさしていた傘を降ろした。隣で動く気配がし、のろのろと視線を向けるとすっと伸ばされた指先。そこにふわりと舞い降りて、瞬間的しゅわりと消える。
 同じように手を伸ばすと、自分の指にも同じく降りてくる雪。そして後に残る濡れた感覚。
 寒さですっかり凍えた指先には、僅かな、けれど雨とは違う感触があった。
「随分と冷えてきたからな」
 雨が雪へと様変わりする瞬間、二人は外に居た。互いの傘によって遠のいた距離を寂しく思いながら、ぽつりぽつりと他愛のない会話をして距離を埋めていた。
「積もるかな」
「さぁな。さっきまで雨だったし。溶けちゃうんじゃねぇ?」
 素っ気なく返した言葉に、そうと一言、彼女は残念そうに呟いて白い息を吐き出した。
「何もかも、覆い隠すくらい降るといいのに」
 呟かれた意味深な言葉に見つめると、彼女はやんわりと微笑んでいた。
寒さに赤らめた頬が冷たいと、寒いと告げていた。口元を持ち上げて笑っていたのだが、それが引き攣れているように見えるのは寒さで強張っている証拠。
 手を伸ばして触れてみれば、雪の様に冷たい肌。
「・・・冷たい」
 触れた指先も冷え切っていて、身じろぐようにして彼女は言う。拒絶されたような気がして、両手をこすり合わせてからポケットにねじ込む。
「・・・隠したいもん、あるの?」
 問いかけると、白い息の間から赤い唇がやんわりと結ばれるのが見えた。艶やかに塗られた唇が、やけに赤いと感じる。
 濡れた様に艶やかなのは、口紅の所為なのか彼女の艶なのかは判らない。ただその口元、が言葉を発せずにゆっくりと動く。
 どうかしら。と無言で動く唇。
「謎掛けはごめんだぜ。こんな場所じゃ、ゆっくり考えることも出来ねぇよ」
 非難めいて告げると、驚いたようにこちらを見返す瞳。その長い睫毛にも、雪は舞い降りてくる。
 外は寒かった。どこか暖かい場所へ行こうかと、目前の喫茶店を目指していたはずだった。こんなところに立ち止まったままでは、いつまで経っても寒さは変らない。
 暖をとるためにどこかへ逃げ込みたいところだが、降りそそぐ雪の中、微動だにせず彼女は立っていた。
「謎なんて、ひとつも無いわよ」
 くすりと笑う声が聞えた。傘はすでに放り出されていて、ただじっと空を仰ぐ彼女の姿。
 黒髪に落ちては消えていく白い雪。時折吐き出す息が真っ白で、寒さで赤らんだ頬も、鼻の頭も。そこに居るのは寒いと訴えているのに。彼女はそこから動く気配すら見せない。
 自分の傘を差し出しせば、空が見えないと無言で視線が送られる。苦笑しながら傘をたたむ。
「なぁ、休んでいこうか」
 喫茶店より先、奥まった通りの角を曲がれば、カップルに似合いのホテルがある。
 暖もとれるし温もりも分かち合える。こんな日は特に、抱き合いたいと思うのは男だけか。
「もう少し、ここで」
 雪を。彼女が一言一言発する度に、白く煙る息。
「じゃぁ、あと五分だけ。その後は俺に付き合えよ?」
 その言葉にぱちぱちと二回、小さく瞬きする。それから言葉の意味を感じ取ったのか、彼女の唇が言葉を発せずに動く。
 スケベ。と一言、笑顔と共に。
 なんとでも言ってくれよ。お前を抱きたいと思っただけなんだから。
「じゃぁ、あと五分は私に付き合ってね」
 彼女はそう呟いて、再びすいと顔を上げて空を見つめる。ふいに見えた白い首筋に、今すぐにでもかぶりつきたいという衝動に駆られて、一歩彼女の傍に近寄る。手を伸ばせば触れられる距離なのに、彼女の熱さえ感じない寒さ。
「雪って、どこから降ってくるのかな」
 一緒になって仰いだ空。灰色の空から降りそそぐ小さな点が、間近で雪だと確認する。小さな点のその先に、雪の降る元がある。
 雨粒が地上に降る途中で、冷気を纏い氷の結晶となる。
 小学生でも判る事実の事を言っているのではないと、すぐに理解する。
「空、だろ」
 いや、雲か。
 雪の出所はどこであろうと、元はただの雨粒。降ってくるその先など、どちらでもいいと返すと、隣でくすりと笑う声。
「どうでもいいって感じね」
「どっちでもいいさ。五分経っちまえばそれで」
 せっかち。と非難めいた言葉にちらり視線を彼女へ向ける。細い首筋が寒々しくて、見上げ続ける彼女のコートの襟を立てた。こんなことで寒さがどうにかなる訳ではないが、気休めになればいいと思う。
 今度、マフラーを買ってやろう。
 早すぎる雪の登場で、用意してなかったマフラーを思い浮かべる。彼女のことだから気に入りのマフラーは家にあるだろうが、そんなことはどうでもいい。
 今、彼女の首を温められないのなら意味は無い。
「今度、マフラー買ってやるよ」
「あるからいい」
 予想のついた返答に困りながら、それでも心の中では決めた。
「じゃぁ、お揃いのやつね」
 こちらの考えは見通していたのだろう、彼女から帰ってきた言葉。
 愛しさがこみ上げて、腕を伸ばして彼女の身体を抱き寄せる。コートの上から抱きしめた身体はひんやりと冷たかった。お互いの身体が温もりで温まるには、もう少し時間が掛かるだろうか。そのうちにあっという間に五分が経ってしまうだろう。
「なぁ、もう五分経ったろ?」
 時計も見ずに声を掛ける。あと五分と告げた時にさえ時計を見ていなかったのだから、五分と言い切ってしまえばそれで済む。
 なぁ。
 濡れた髪に頬を寄せて、そっと囁く。
「せっかち」
 とまた、彼女は笑って返した。
 放り出した傘を取り上げて、こちらに差し出す。やっとその気になったかと、腕を解いて彼女を解放すると、くるりと彼女は身体の向きを変える。その背を追いかけるように傘を差し出す。
「じゃぁ、せっかちさん。どこに連れて行ってくれるの?」
 冷え切った頬がゆるりと持ち上がる。にこりと笑う顔は、寒さで赤らんでいた。
「そりゃ、お互い温まって気持ちよくなる場所に決まってんじゃん」
 背後に回した腕で引き寄せながら歩き出す。道路はいつの間にかうっすらと白く染まっていた。
 一歩踏み出すとじわり足型に溶けていく雪。
「出てくる頃には、一面真っ白ね」
 嬉しそうな声が隣から聞えてくる。
「電車が無かったら泊まっていこうぜ」
 電車が在ろうと無かろうと、既に今夜は一緒に過ごすと決めた。
「朝まで残ってるかな」
 彼女もこちらの意図には気がついているのだろう、そんな風に言葉を返す。
「さぁな」
 明日まで降るかどうかもわからない雪。今夜で降り止んで、朝には溶けてしまうかもしれない。もしかしたら明日まで降り続いていて、それこそ一面の雪景色かもしれない。
 どちらにせよ平野のこの辺りでは、雪などそう積もることなど無い。
「雪合戦とか、出来るくらい積もってたらどうする?」
 どうするとは、雪合戦をするかどうかということだろうか。
「知らねぇよ。そしたらもう一泊すればいい」
「・・・ヤダ」
 本当に嫌そうな声が帰ってきて思わず笑う。
「雪合戦、したいのかよ」
二人の頭上、ではぱらぱらと乾いた音がする。傘の上に降りそそぐ雪が、更に勢いを増していた。
「なんとなく。昔に戻ったみたいでいいじゃない?」
 昔とは、どれくらい前なのだろう。
 子供の頃の彼女は知らない。もしかしたら垣間見られるかもしれないなどと思い、それならそれもいいかもしれないと思う。
「昔に、戻りたい?」
 ふと、気になってそう訊ねた。
 何もかも覆い隠したい。という言葉の意味は、もしかして昔に関係あるのだろうか。
 そんな風に思って。
「今があるから、それで十分だわ。いけない?」
 にこやかに笑う顔が、こちらを見つめていた。
「いいんじゃねぇ?オレも今があればそれでいい」
 隣に彼女が居て、同じように寒さを感じる人が居て。
 一緒に雪の降る瞬間を見て、それで十分だと思う。
「じゃぁ、そういうことで。今を堪能しますか」
 
 誘うように腰を引いて、雪の中を歩いて行く。
 辺りはすっかり人気が消え、寒々しい白い雪に覆われて辺りは白く染まりつつある。
 こんな日は特に、抱き合いたいと思う。
 寒さの所為か、それとも雪に見とれていた彼女の所為か。
 何にせよ、雪を見つめている彼女に見とれていたのは事実。こっちを向けと、どこかでやきもきしていたのも、自分の腕に閉じ込めて温めたいと思ったのも事実。
 たった五分。けれど、長い五分だった。
 彼女を雪にとられている時間。

 雪はこれからも、辺りを白く染めていく。
 それよりも先に、彼女を取り返したい。

 白い純白のヴェールが、何もかも包み込んで隠してしまうならそれでもいい。
 そんなものに隠されてたまるか。
 大切なものは今で、この時間で。
 傍に居る彼女なのだから。

 今年初めて降る雪は、降り注ぐ人々に様々な思いをもたらした。



あとがき

 

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