〜前編〜
「キョウ、行って来るよ」
声に振り返ると、もう玄関の中で靴を履いている。
挨拶くらいちゃんとしろよ。
ちょこんとマサアキの肩に寄りかかると、マサアキは急いで立ち上がる。
「何だよ、何?遅刻しそうなんだよ。悪いな、帰ってきてからな」
ぐりぐりと乱暴に頭を撫でて、じゃぁ、と重たい玄関のドアを開けて出かけていく。
おいおい、慌てて出かけるとろくな事ないぞ。気をつけろよな。
わざわざ心配して声をかけても、マサアキには聞こえてないんだろうなぁ。と思う。玄関のマットの上に取り残されて、僕はなんだかなぁ。とつぶやいた。
せめて、挨拶くらいきちんとしようよ。尻なんか向けてないで。
僕が猫だからって、そりゃぁないんじゃない?二人きりの家族だろう?
ふてくされて、いつもの場所に陣取る。リビングの窓際。レースのカーテンの隙間から入る太陽の光。このぽかぽかの光が体中を温めてくれる。部屋の中でここが一番スキだ。でも、この場所は時間によってぽかぽ
かが違うから、その都度場所を変えなくちゃいけない。
午前中は浅い光のぽかぽか。
お昼頃はまっすぐ光のぽかぽか。この頃はぽかぽかの温度はちょっと強い。
午後はゆったりな光のぽかぽか。この頃が一番ちょうど良い温度のぽかぽか。
その度に寝返りを打ちながら、僕はクッションの上で丸くなる。マサアキが作ってくれたボロ毛布でできた僕のクッション。僕の身体にちょうど良い大きさで、マサアキの匂いが残っている。僕はこのボロ毛布のクッションが大好きだ。マサアキがいない時間、僕を包んでくれるから。
ちょうど午後のぽかぽかがやってきて、僕は寝返りを打つ。
僕はマサアキの夢を見た。
何だかよく判らないけれど、すごくうなされた。
嘘だ!嘘だ!嘘だ!
嫌だ!嫌だ!嫌だ!
「そんなの、無理に決まってるじゃないか!何なんだよぉ!」
目が覚めたら、僕は人間になっていた。
確かに、僕はマサアキを見送った後、マサアキの作ってくれたクッションで寝ていた。さっきまで僕を包んでいたマサアキの匂いは嘘じゃない。
・・・目が覚めたらマサアキ本人になってるなんて!
慌てて起きあがろうとして失敗。ごろんと草むらに転げ落ちる。訳が分からなくて、とにかく歩きだそうとして失敗。何度も何度もごろごろと草むらを転げ回り、ごちんと頭を木の根本に打ち付けた。
「ったぁ!」
なんなんだよ!これは!どうして、上手く歩けないんだよぉ。
ふと気がつく。
・・・あ、二本足だからかぁ。
「・・・でも、何で僕は人間になってるんだぁぁ!」
目が覚めた場所が、昔よく行っていた公園で良かったと思う。ノラ猫時代良く通った公園。マサアキが会社帰りに良くこの公園を通り抜けていて、そこで僕を見つけて拾ってくれた。
この辺の地理は覚えている。とにかくうちに帰らなくちゃいけない。
マサアキの中身はどこに行ったのか。僕の身体はどこに行ったのか、凄く気になる。
一歩公園を出ると、駅前のせいか人が多い。ビックリするくらい早足の、ビックリするくらいの人混みの中、僕は一生懸命歩いていく。バランスを取りながら、せっせと両足を動かしいた。
この時、初めて僕は自分の運動神経に感謝した。
必死で足を交互に動かしていた。混乱する頭の中を整理しながら、僕はひたすら歩いていた。勢いを止めたら転んでしまいそうだったし、考えてみると凄く怖いことだ。
僕が、猫の僕が人間になってしまうなんて。
発想を変えようと思った。とにかく何でも気が楽になりそうなことを。
そうだ、たまに外出するのもいいじゃないか。マサアキに拾われてから、ずっと家の中で暮らしてきたせいか、周りの景色がとても新鮮に見える。マサアキの身長はあまり高くないけれど、165pだというこの高さは、僕にとっては凄く新鮮だった。
・・・新鮮だったけど、やっぱり怖い。
そういえば、あまりにも久しぶりだから方向感覚も何だか変だ。しっぽもヒゲもないから、尚更わからない。
猫の抜け道は、マサアキの身体では無理だし・・・。
僕は帰り道を失いそうになって、怖かった。
「おいっ。そこの」
恐怖で引きつった顔のまま、とにかく歩いていたときだった。急に声をかけられ、僕の心臓はぎゅっと縮まる思いだった。どきんとして、急ブレーキをかけたものの、慣れない人間歩きのせいか、上手く止まれずに転びそうになった。
振り返るとそこは駅前のバス停のベンチで、とにかく公園を抜けることが出来たようだった。バランスを取って立ち止まると、声をかけた人物が僕に向かって手を振っている。
・・・マサアキの知り合いなのかも知れない!
緊張しながら近づいていくと、男の人間は僕を見てにかっと笑った。
「お前、猫だろう?」
「・・・うえぇ!」
驚いていると、男の人間はまたにかっと笑って僕に言う。
「同病相哀れむ。って言葉知ってるか?」
その人は拳を握ると、猫らしい仕草で顔を洗った。
「俺もさぁ、一年前にね」
入れ代わったんだよ。と、あっさりと彼は告白をした。
彼は隣町のボス猫だったらしい。ケンカをしてつぶしてしまった左目が、人間になった今もやはり見えにくく、時折ごしごしとこすっては、まばたきをしている。
僕らの前を何台もバスが通り過ぎていく。今はちょうどお昼のぽかぽかで、人間の僕の顔には少しだけ日差しが強く感じる。
「なんてこたぁねぇよ。そのうち慣れちまう」
慣れる?この生活に?
僕は不思議で仕方がない。だって、猫だったのに。
「なんてこたぁねぇ。やろうと思えば何だって出来ちまうのさ。それに、生きていくしかねぇんだよ。死にたくなきゃな。カイシャにも行かなきゃなんねぇ」
働いて、稼ぐのさ。
彼はそういって、『たばこ』というものを吸った。
「お前も、今日はゆっくりしていけよ。有給とれたんだろう?今日はとことん新米のお前さんにつき合ってやるから、心配すんな」
彼は得意げにそうつぶやくと、ぷっかりと『たばこ』の煙をはいた。
僕は彼の言うとおり、『かいしゃ』に『でんわ』というものをかけた。時間からしてこの身体は会社に行く途中だったに違いない。と彼がいい、それならきちんと休みを取るなりしなけりゃダメだ。と言う。
その身体がお前のご主人だって事は、下手な事にならない方がいいだろう?
彼が言うには『ゆうきゅう』というものを使うと、休んでもお給料がもらえるらしい。
彼はボスを務めていただけあって、すごく面倒見がいい。人間社会のルール通りマサアキを休ませてくれた。
そんな彼に出会えて僕は良かったと心の底から感謝した。そこで彼の名前を訊いてみる。
すると、返ってきた答えは実にあっさりと、無い。という。
「人間の名前はある。こいつの身体にくっついていた名前だ。だが、猫の時の名前はない。名を付けてくれる親も人間もねぇし、仲間もいなかったからだ。みんなは俺のことをボスと呼んでた」
ボスは(それは実に彼らしい名前だと思う)人間になってからの苦労話をたくさんしてくれた。
「俺が人間になっちまったのは、こいつと仲良くなったせいだな」
こいつ。と自分の身体を指差して言い、思い出すように笑った。
「こいつ、リストラされて毎日俺んとこの縄張りに顔出してよ、俺の特等席でぼーっとしてやがる。今にも死んだような顔してるからさ、本気で死ぬんじゃないかと思った位さ」
ボスはそうおかしそうに笑った。
こいつ、いつもひとりごと言ってやがった。死にたいとか、そんなことばっかりさ。そんなら、死ねばいいじゃねぇかって思ってよ、説教しに言ったんだよ。
毎日、毎日、うだうだ死にてぇって言ってんなら、さっさと死んじまいなって。俺の特等席をお前に譲っておくなんて、許せねぇってね。
まぁ、言ったところで俺の言葉なんかわかんねぇんだけど、とりあえず言ったわけだ。
そしたらさ、次の日、死にかけてるんだよ、俺の特等席で。
あわてて駆け寄ってみたら、なんか言ってるんだよ。
この期に及んでまだなんか言ってんのかと思ったらさ、まだ死にたくねぇ。って言いやがる。
どっちなんだよって、ひっぱたいてやったらさ、うっすら目を開けて俺を見るんだよ。
猫になりてぇ。ってな。自由気ままな猫になりてぇ。って。
くだらねぇ人生を、このまま終わりたくねぇってそう言いやがる。
上等じゃねぇかってんで、言い返した。
俺の人生のどこが自由で気ままなんだって。そこまで言うなら取り替えてやらぁ。って。
「それで?それで入れ替わっちゃったの?」
おそろしく、あっさりと。と、ボスは言った。
気がついたら人間の格好で、病院にいた。そこで、人間について色々学んだよ。おかげで退院する頃には、人間らしくなっていた。
そこを出てから、俺の縄張りを見に行ったんだよ、俺がいなくなった後、あいつがどうなってるか心配で。見に行ったら、特等席には見慣れねぇ猫が座ってやがる。猫に替わっちまったあいつは、俺が持ってたボスの座を守りきれなかったんだな、争いに巻き込まれてすぐに死んじまって。
後で聞いた話だが、あいつが人間になった俺を助けてくれたんだ。猫になっちまったのによ、助けを呼びに行ってくれたんだと。自分が目の前で死んでいくのが耐えられなかったのか、それとも少しでも俺を不憫に思ってくれてたのかは知らねぇ。
でも、皮肉なことに人間のあいつは生き残って、猫の俺は死んじまった。
やっぱりよ、入れ替わったところで待ってる人生ってモノは同じなんだよ。
猫であれ、人間であれ、中身が大事だってね。
「だから、俺は生きなくちゃいけねぇ。俺の人生を全うするまでは、不用意に死ねねぇ。だから、人間になっても俺は俺の流儀を通して生きてきた。人間の世界だろうと、俺らしく生きてんのさ」
だからお前もよ、お前の前にしかれた人生を歩けばいいのさ。
ボスはそう締めくくると、短くなった煙草を捨てた。
「何のまじないかは知らねぇが、入れ替わっちまうこともあるのさ」
ボスの言葉はなんだか淋しい。
「猫に戻りたいと思わないの?」
「いや、思わねぇ」
即座にそう答えると、ボスは言った。
「知ってるか?猫ってのは人間に比べて心臓がちいせぇ。おかげですげぇ早さで鼓動してるんだそうだ。その分、人間よりも早く人生が終わっちまう。同じ時間の流れにのって生きてんのによぉ、猫ってのは損だと思わねぇか?俺は猫として5年生きた。その後、人間としてどれ位生きられるかは知らねぇが、俺は生きていたいのよ」
あいつの分も。
ボスはぼんやり遠くを見ている。
あぁ、そうなのかと思った。
ボスはあの人が忘れられないんだと思った。だから生きている間ずっと、ボスはこんな淋しそうな言葉を言い続けるんだ。
「ねぇ、ボス。僕は生きていたいよ」
猫として。
ボスは目を細めて僕を見る。
お前はその方が合ってるみてぇだな。そう笑って。
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