「 Don't understand 」

 




 ゆるゆると立ち上る紫煙。
 青い空へ昇っていく煙をぼんやりと見送りながら、吐き出された煙の行く先を目で追う。
 風のない天気の良い午前。暖かな日差しがまだ柔らかい。
 まだ年が明けて間もない冬空。頭上の太陽は冷たい風を温めていた。
「のどかだねぇ」
 のほほんと告げられた一言。誰に言うでもなく呟かれた一言は、辺りを包む静かな空気の中に溶け込んでいった。
 目の前に広がる光景は、ここが何処なのか一瞬忘れさせるほどに静まり返っている。
「授業中だしね」
 ぽそりと告げられた言葉に、英之は何も返さない。ただ黙って煙が昇って行く先を見つめていた。
「何でおまえがここに居るんだ?」
 ちらりと視線を向ければ、ぐるぐると巻きつけたマフラーに埋もれて、春日は鼻をすすった。
「寒いなら戻れよ」
「ヤだよ。英之がサボりならオレもサボる」
 今頃教室の中では、二人が居ないことが問題になっているだろうに。
「意味判んねぇ。寒いんだろ?」
 日差しが温かいとはいえ、今は冬。のんびりと日向ぼっこには相応しくはない。自分は隠れて煙草を吸いたいが為にここに居て。彼女が付き添う理由は見当たらない。
「寒い。マジで寒いって」
 なら戻れよと、無言で春日の身体を押しのける。すると小さな悲鳴を上げて春日の上半身は傾き、ぱたりと芝生の上に手を付いた。
「なんだよ、冷たいヤツ」
「見つかったらどうすんだよ」
 学校で、しかも授業をサボってタバコを吹かしている自分。自分一人が咎められる分には問題は無い。しかし、ただそこに居ただけの春日にまでとばっちりが向かえば、自分にはどうしようもない。
「じゃ、ヤメロよ」
 言うなり春日は英之が咥えていた煙草を取り上げると、芝生の上に押し付けた。
「オレは、英之と授業をサボりに来た。タバコを吹かしに来たんじゃない」
 きっぱりと言い捨てた春日に、ひねり潰された煙草をぼんやりと見つめる。
「・・・その為に居たのか」
 煙草を止めさせる為に、そこに。
「言ったろ、オレは授業をサボりに来たんだ」
 ふふと得意げに笑う顔。切りそろえた襟足が揺れて、春日の輪郭を彩る。
 思わず手を伸ばして触れれば、春日は眉を顰めて首をすくめる。その様子に指先が冷えていたのだと気が付いて、溜息をついて春日のマフラーを巻き直した。
「教室、戻るか」
「そ?ならオレも付き合うよ」
「お前・・・その為に居たのか」
 同じ台詞。しかし意味はほんの少しだけ違う。
「違う。言ったろ。英之がサボるなら、オレもサボるって」
 授業だからと呼びに来たのではない。サボった自分を咎めに来たわけではない。
 自分がここに居たから、春日もここに居る。
 ただそれだけ・・・なのか?
「お前ってさ、時々よくわかんねぇ」
「そ?ちょっと嬉しい」
 にっこりと笑う顔。その鼻先が少しだけ赤くなっていて、春日はまたずずと鼻をすする。
「嬉しいのか?」
 それこそ、判らない。
 困惑してポケットに手を突っ込むと、くしゃりとポケットティッシュが潰れた。それを引きずり出してきて一枚抜き出すと、春日の鼻先に押し付けた。
 驚いた春日が、それでもそのままちーんと豪快に鼻をかむのを見て笑う。
 もう少し、恥じらいってもんはないのか。お前。
 オレの手で鼻をかむなんて、たいした女だよ。
「何もかも、英之に判ったら面白くないじゃん。何の為に傍に居ると思ってんの?」
「は?意味なんかあんのかよ」
 恋人同士で、好きな女で。それ以上何かあるのだろうか。
「あるある。十分あるって」
 意味ありげに呟いて、春日はすっと立ち上がる。目の前でぱんぱんとスカートを払う。目の前に現れた白い膝裏。ふいに悪戯したくなって手を伸ばすと、春日は面白いほどあっけなくかくりと膝を折った。
「英之!」
 よろめいて、しかし堪えたらしい春日は、くるりと勢いよく振り返って英之の頭を叩いた。
「油断大敵。目の前に居るのが男だって判ってんのかよ」
 春日の手を引き寄せると、軽い身体はすとんと英之の懐に落ちてくる。
 目の前で好きな女の生足を見て、なんとも思わない男が居るはずも無い。
「判ってるよ」
 不貞腐れて呟いた春日は、それでも言葉ほど判っているとは思えない。英之の胸の中でにんまりと笑い、腕を伸ばして英之の頭を叩く。
「油断大敵。恋人だからって思うように行くと思うな」
 オレはサボりに来ただけだ。春日はそう呟いて、英之の胸を踏み台にして立ち上がった。
 ぐっと加重がかかり、思わずうめき声が上がる。いくら身軽な春日とはいえ、重いものは重い。
「・・・お前なぁ。もっと労われよ」
 ぐいと踏みつけられた胸。しっかりとスニーカーの足跡が付いたブレザーを、英之は忌々しそうに払った。
「知らないよ。自業自得」
 ふふんと笑って春日は手を差し出した。その手を掴むと絡みついた指先がぐいと引き上げた。勢いにつられるように英之はのそりと身体を起す。
 逆に引き寄せていたら、また踏みつけにされるような気もした。だから逆らわず、春日の隣に立つ。
「英之がおなか壊したってことにするからね」
 サボった理由。と春日は意地悪く笑う。
「じゃぁ、あれだ。お前の手作り弁当食って腹壊したことにする」
 負けずに言い返せば、目の前でむっすりとふくれっ面をする春日。
「オレ、英之にお弁当なんて作らないし」
「じゃぁ、作ってくれよ」
「・・・ヤダ。面倒くさい」
「愛がねぇ・・・」
 人を踏みつけて、その上サボりの理由にまで挙げておいて。それは無いだろうと思う。
「愛なんて、形にならないんだよ」
「形にしてみせてくれ」
 例えば弁当とか。
「・・・ちょっと無理」
「何で?」
「おなか壊しても知らないよ」
 けらけらと声を立てて笑いながら、春日は英之の腕を引いた。急かすでもなくゆっくりの歩調で歩き出した春日に、英之は本当に腹を壊すのかと溜息を付きながら後に続く。
「それも愛とか言うなら、作ってもいいよ」
 腹を壊すのも愛というのならと春日は言う。
「言う言う、お前の愛で腹を壊すなら本望だ」
 冗談めかして言えば、困り果てた顔で春日は溜息を付いた。
「嘘ばっかり。知らないから」
 明日は下痢決定だからね。と、ぴしゃりと突きつけられた言葉。可愛げのない一言なのに、嬉しくなるのだからどうしようもない。
「玉子焼きとか、入れろよ」
「知らない」
「ウインナーも」
「知らないったら」
 すたすたと前を歩く春日のマフラーを掴んで引き止める。
 ぐえと大げさに苦しむ素振りをして、春日は振り向きざま睨み付けた。
「・・・殺す気?」
「そりゃ、こっちのセリフ」
 愛情たっぷりの手作り弁当。明日の我が身は如何ほどか。
「大丈夫、おなか壊すかもしれないけど死にはしないと思う」
「お前に殺されるなら本望」
 けらりと笑いながら告げる。すると春日はじっと見上げたまま口を噤んだ。困ったような視線が英之を捕らえた。
「・・・冗談だぞ?」
 本当に殺すなよ。
「その時はさ、オレも死ぬよ」
 呟いて春日が英之を見つめた。淡々と告げられた言葉の意味に慌てたのは英之。
「おい、冗談だって・・・」
「英之が居なくなったら、オレが居る意味が無い」
 傍にいる意味がないんだ。ぽつり付け足された言葉。
 それが先程の言葉の続きなのかと英之は言葉を止める。
「やっぱり、お弁当はナシだ。オレも英之もまだ死ねない」
「ちょっと待てよ、よく判んねぇって」
 死ぬほどまずい弁当なのか。それともそれほど危険な弁当なのか。
 どちらにせよそれは、冗談の類だったのではないか。
「言ったろ。英之が死ぬならオレも死ぬんだって」
 しょうがないじゃんと肩をすくめて笑う顔は、言葉の意味さえ失ってしまう程に明るい。けろっとした笑顔に呆然としながら、英之は乾いた唇で言葉を発した。
「・・・サボりとは別もんだろ」
 英之がサボるから、オレもサボる。と告げられた言葉。それと同じくらい軽く口にされたセリフ。
 どこまでが先程の会話の続きなのか、判らなくなる。
「一緒だって。言ったろ?傍にいる意味がないんだ」
 そこに、英之が居なかったら。付け足して春日は小さく笑った。
「オレを中心に世界が回ってるとでも言いたいのか」
 そんなセンチな女でもないだろうにと、英之は言葉にした。すると春日は呆れた顔をして英之の肩を叩く。
「違う。馬鹿だろ英之」
「よく判んねぇって」
 じゃぁ知らないと、春日はぱたぱたと走っていく。ふわりとスカートが揺れて、腿根がちらりと視界に映る。白い柔らかそうな肌。ほんの一瞬映っただけの光景。
 太陽に照らされて、春日の髪が透けるように亜麻色を強めた。
「ちょっと待てって」
「そこにオレと英之が居るならそれでいいんだ。それ以外はいらない」
「・・・おい?」
「言ったろ、意味がないんだ」
 そこに自分が居て、恋人が隣に居て。
 それだけで十分意味があるから。
 楽しいとか嬉しいとか、そういうものは自然と付いてくるものだから。
「だから、それで十分なんだ」
 何度も言ってるじゃないか。春日は振り向きざまに笑う。にっこりと。
「だから、判んねぇんだって」
 何も言わずに傍に居たり、危うい事を共にしようとしたり。
 確信めいているのか、ただの気まぐれなのか。それさえ計れなくて。
 つかみ所の無い恋人の、見た目よりずっと力強い心の内も。もしかしたら見た目どおりに脆い心も。
 何もかも、自分は知らないことばかりで。
「いいんだよ。何もかも判ったら面白くないだろ?」
 謎掛けみたいな一言に、また翻弄されて。
 引き止めて何もかも知りたいと駆け出せば、捕まるものかと俄然はりきって逃げていく春日。
「英之!」
 校舎に入りかけて春日は足を止めて声を上げる。
「おい、まだ授業中なんだぞ」
 少し声を抑えろって。
 自分達は授業を抜け出した。もっともらしい理由は自分の腹痛で。だから大声なんて上げたらまずいと英之が注意すると、春日は悪戯っぽく笑って手を振った。
「一緒に死ぬのも悪くないかもしれないな」
 肩を竦めて笑う春日の向こう、見えた教師の姿。怒鳴り声が聞えて、春日は手招きをする。
 とりあえず、一緒に罰を受けろということか。
 背を向けて走れば、この場は免れるだろう。後々呼び出されて怒られるのは目に見えているが、怒られると判っているのに笑っている春日に負けた。
「・・・お前が居るなら、それでいいのかもしれないな」
 ポケットの中に手を突っ込めば、まだ数本残っている煙草の箱に気が付く。
 ・・・どこまでごまかせる?
 怯えながら足を進めれば、腹を壊したと春日が言い訳をしているのが聞えた。

 『朝ごはんを作ってきたら、彼がおなかを壊しちゃって』
 『気分が悪いというから、外で新鮮な空気を吸っていました』

 吸っていたのはタバコの煙。
 おなかは壊れてないが、気分は随分と悪い。

 『ワタシの所為だから、付き添っていました』

 何が"ワタシの所為"だ。しらじらしい。
 いつもは"オレ"としか言わないくせに。

 『だって、彼が。ワタシの所為にしたくないからって、黙っていろって言うんです』

 いつからそんな芝居じみた事が出来るようになったんだ。
 まったく。訳のわからねぇ奴。

「すんません。彼女は悪くないんです」
 合わせる様に具合の悪い素振りを演じる自分は、すっかり春日に乗せられていて。
 何気に腹を擦る素振りをしたり、顔を顰めてみたりして。この演技で何がどこまでごまかせるのか、頭の中で計算したりする。
 訳が判らないのは、自分の方。
 見せないように演じているだけで、実はリリカルな春日を。
 その部分を見せ付けられて、動揺しているだけで。
 なるほどそういうことかと、顰めた表情の下で納得する。


 何もかも判ったら、面白くない。
 この演技の結果も。
 春日の言葉の意味も。
 二人一緒に居ることの意味も。


 傍に居る意味を欠くほど、大きなものかもしれないと思う。



あとがき

 

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