- Short Story FIGHT CLUB - 第10回 投稿予定ボツ作品
「 それそれの落し物 」
晴れた日曜日。朝から少し冷え込んでいた。 空は青く澄み渡っていて、吹きぬける風が冷たいというそれだけなのに。高く昇った太陽の光は、辺りを暖めることはしてくれなかった。 寒い寒いと零しながら、隣を歩く人からも温もりは感じない。 なんて寒いんだろう。 口にはしないけれど、心の中で何度も繰り返した。 折角の休日。それなら家でゆっくりしていたかったのに、折角の休日だからという理由だけで彼が隣を歩いている。 私が彼と出かけることに持ち出された理由は"折角の休日"というそれだけで。それなら毎週必ず一日は休みじゃないのと、不満さえ口に出来なかった。 それは久しぶりのデートで。そう、かれこれ半年振りになるんじゃないかという、久しぶりさで。しかも唐突だった。 彼が私の恋人で。私は彼の恋人で。 だからきっと、それだけの理由で会うことも本当は普通なのかもしれない。 それさえ受け入れられなくなった私の心は、やっぱり寒いのだと思う。 冷えて、愛情さえ感じない凍った心。 彼の車に乗り込んでしばらく、エンジンが温まるまで震えながらシートに身を収めていた。隣では、ハンドルが冷たいと手を暖めようとしている彼。 「ほら、こんなに冷たいんだ」 ふいに彼が指先を頬に押し当ててくる。氷の様に冷たくなった指先は、同じだけ冷えた頬の上では強張っているとしか感じない。 「そうだね」 笑って返しながら、彼の手をそっと引き剥がす。膝の上でゆるく重なり合った指先を、彼がやんわりと包んでくれる。まるで温もりを分かち合うかのようなその行動に、私はただ身を任せて包まれている。 きゅっと強めに握られて隣に視線を送る。ぱちりと重なり合った視線に戸惑いながら、私はきっと笑った顔をしていたのだと思う。 目を細めて笑う彼が、どこか嬉しそうな顔をしていたのを見て、今日初めて視線を交えたのだと知った。 彼の目が見られなかった訳じゃない。後ろめたかった訳でも、気まずい訳でもないのに。気がつけば今日、初めて私は彼の目を見た。 こんな風に優しい目をする人だっただろうか。 交じり合った視線をじいと繋いだ私に、彼はやっぱり優しい笑みをする。 エンジンが響く振動と暖房が吹き付ける車内。そこに流れていく静かな曲は、いつだったか私が好きだとよく口ずさんでいた曲だった。 最初は彼が好きな曲だった。会う度いつも車の中で流れていたその曲は、私の知らないアーティストだった。それでも繰り返し聞くうちに、いつしか口をついて歌えるようになって、好きな曲に格上げされた。 この曲を聴くのも、半年ぶりなのだと思うと懐かしいと思う。 気に入ったのならと、貸してくれたアルバム。テープに録って、MDに録ってとプレイイヤーを変える度に、何故か私の手元へやってきた。今度はこの曲をCDに焼くのかなと、私はぼんやりと思っていた。 テープにもMDにも残っているその曲は、好きだった分聞かなくなった。会わない間、それを聞くことは何故か心苦しくて。彼の好きな曲だと思えば尚更で。 あぁ、そうか。彼を思い出したくなかったんだと、今になって気がついた。 そこに彼が居て、今は二人だけの空間に今まで通り流れていく曲。 そこに在るのは今までと変わらない空間。ただそれが、随分と久しぶりだというのに何も変わらずにそこに在るから、懐かしいと思うだけで。 それだけ、なのに。 懐かしいと思わせるのは、距離を置いていた所為なんだ。 するりと離れていく指が、ハンドルを握った。消えた温もりを逃がさないようにそっと握り締めて、私は窓の外の流れていく景色を見つめた。 どこに行くとも言わないで走る車。運転する彼にも、どこに行きたいのかきっと明確なものは無くて。ただ道なりに、まっすぐ安全運転で進んでいく。 カーブの度にそっと出される腕が優しすぎて、沈黙を埋めるように話し続ける彼の言葉も優しくて。 たった一言、二言。相槌の様に返す言葉だけで満足する彼も優しくて。 苦しかった。 「もう、春なんだね」 見慣れた風景が流れていく様を、私はぼんやりと見送って呟いた。 最後に見たその景色は、夏頃だったのではないかと思う。記憶にあるのは緑いっぱいの眩しい景色。照りつける日差しが、窓越しに肌に痛かったのを思い出す。 そしてこの言葉が、長い時間をまざまざと見せ付けていた。 最後に会ったのは夏。この道を通ったのもその頃。 「春だよ。まだ寒いけどね」 少し急なカーブを、腕を差し出しながら彼が曲がる。自然と足に力が入って、カーブの衝撃に耐える。目の前にある腕にすがる事はいつも無くて、それでも彼は気遣って差し伸べてくれる。 その腕が、優しさの一部なのだと今になって気がついた。 「今でも好きだよ」 唐突に呟く声。のろのろと顔を上げて隣を見ると、彼はまっすぐ前を向いたまま真剣な横顔。 それが運転に集中している顔なのか、それとも言葉に合わせた真剣さなのか、判断がつかなかった。 「今でも、マナの事が好きだよ」 愛称で呼ばれるのも随分と久しぶりだった。愛美というのが自分の名前だと、マナと呼ぶのは彼だけなのだと、思い出したみたいに新鮮な気持ち。 「だから、気にしなくていい」 信号を前にして緩やかにスピードを落としていく車。シフトチェンジの為に伸ばされた手が、私の膝のすぐ横を掠めて行く。 ふと彼がこちらを向いて繰り返した。好きだよと抑揚のない声。 何を気にしなくていいのだろう。そればかり考えていた。 会いたくないと拒絶してきた時間のことだろうか。それなのに恋人という関係を解かなかったことなのだろうか。 それとも。 かくんとシフトレバーが動く。ぐんとスピードに乗る車。 「好きじゃなきゃ、待てないよ」 今日も会わない。付け足された言葉に、私はまじまじと彼の横顔を眺める。 「・・・もの好きね」 返した言葉はそれだけだった。 「マナは良く言うよね。俺のこと"もの好き"だって」 ふっと吐息混じりに笑って、彼がこちらを窺った。私の顔を見て、やんわりと笑顔を見せる。 今、彼の笑顔を誘うような顔をしていただろうか。そんなつもりは無かった。 「どれだけ時間が空いても、たぶん変わらない。どれだけ時間を置いても無駄だよ」 会えない時間、思い返すのはマナだけだった。 怖いくらいマナだけだった。 だから、変わらない。変われないと思う。 彼はぽつぽつ時間を掛けて話した。それを相槌さえ打てずに、私は黙って聞いていた。 「別れたいならそう言って。でも嫌いになんてなれないんだ」 ごめんね。呟いて彼はにっこりと笑った。 自信満々だと思えるくらい、彼の言葉は明瞭だった。それが悔しかった。 試すみたいに空けた時間。その間私だって彼の事を考えた。いつしかそれが苦しみに変わって、意識の外へ追い出そうと何もかも見ない振りをした。 好きだった曲も、彼が好きだというそれだけで聴かなくなった。 嫌いになれなかったから。だからこんなに苦しい。 「綺麗ね」 流れていく景色が、いつの間にか山並みに変わっていた。鬱蒼と生い茂る木々には、春めいた色合いはまだ無い。朴訥と立ち尽くす木々は露に濡れてしっとりと黒く、枝々から差し込む陽の光に照らされて靄を立ち込めていた。 きらきらと光が跳ね返って、靄の中を透いていく。それはとても綺麗な光景だった。 はっとして見つめてしまうくらいに、美しかった。 木々を縫って走るかのような山道は、カーブの度に差し出される腕みたいに自然とどこまでも続いて行く。 「美しい、とは言わないよね」 綺麗とは口にしても、美しいとは口にしない。 同意義の言葉なのに何故、この二つには大きな差があるんだろう。 「正確にはね、類義語ではあるけど、意味合いは違うんだよ」 さすが文学部卒と茶化せば、彼は困った顔で笑う。 「マナは今でも俺の事が好き?」 脈絡も無く訊ねて、彼はまた大きなうねりを曲がりながら腕を伸ばした。 「・・・嫌いじゃない」 「そっか」 それならいい。呟いて彼は腕を戻す。あっさりと告げられた言葉に無性に腹が立って、目の前の腕をぐいと掴んで引き寄せた。 「何がいいのよ!半年も放って置いた挙句、こんなことしか言えないのに?何がいいって言うのよ」 噛み付いた私に、彼は驚いた顔をしながら顔を向ける。すぐさま運転へ戻っていく顔が、何故か腹立たしくなって私は彼の腕を放った。 だって、その顔は笑っていたから。 「それもさ、どっちかといえば類義語かなと思って」 好きと、嫌いじゃない。 意味合いは同じじゃないかな。 何を馬鹿な事をと、横顔に向かって睨み付ける。そんなのはただのご都合主義だと突き返せば、彼はただ笑っていた。 ただ笑って、それだけ。 「・・・何よ、悟りでも開いちゃったわけ?」 「悟り、ね。上手い事を言う」 結婚しようか。脈絡も無く付け足した言葉に、私は呆然として彼を見上げた。 何を馬鹿な事をと、思えなかった。あまりにも唐突で。 「半年、考えたんだ。これまでの自分を振り返って、これからを考えたんだ」 「・・・それと、結婚と。どう関係があるのよ」 「半年前、マナが言ったんだよ?どうしたいんだって。突きつけられて考えた。その答え」 半年前。思い返すとぼやけてしまう時間の向こう側。最後に話したのはたぶん電話。 大学を卒業してから就職先が見つからなくて、自堕落に日々を過ごす彼。大学にも行かなかったけれど、高校卒業してからずっと小さな店で働いていた私と。 そこにある差は歴然としていて、付き合っているうちに嫌なものになった。 仕事でストレスを抱えても、体調が悪くて苦しんでいても。彼は毎日をのんびりと過ごしていたから無性に腹が立って。 だから言った。あんたはどうしたいんだ。って突きつけた。 それが最後。私達の半年前の会話。 きっと何も変わらないだろう彼と、切り捨てたいと思っていた私と。同じだけ時間が流れて半年後。 休日だからと会いに来た彼を、無碍に出来なくて実現した半年振りのデート。 あんたなんて、年中無休で休みでしょ。と、心の中で突き放して始まったデートが、まさかこんな展開になるなんて誰も思わない。 「その為に、会いに来たの?」 わざわざ、半年も連絡の無い私に。 「違うよ。言っただろ、休日だから」 その言葉の意味する所に気がつくのに、ゆうに十分はかかったと思う。だって想像も出来なかったから。 文学青年だった彼が、就職先を選びすぎて逃していたのも知っていたし、それならと有意義に執筆なんて始めた馬鹿さ加減も何もかも、呆れ返って突き放したんだから。 「仕事、始めたんだ・・・」 「当たり前。じゃなきゃ、プロポーズなんて出来ないだろ、普通」 「・・・何でまた急に」 結婚とかプロポーズとか、就職したとか。 畳み掛ける質問に、彼は笑って溜息をつく。それまでろくに話もしてくれなかったのにと、困惑の表情で。 「マナが綺麗だって言うからさ。どうして美しいって言わないんだろうなんて、問いかけてくるから、つい・・・」 ぽろっと。今日言うつもりなんて無かったのにと、どこか後悔したみたいに彼は言う。 「支離滅裂もいいところね」 文学青年が呆れる。 「ミロのビーナスって知ってる?あれさ、腕が無いのに見事なプロポーションなんだよ。まるで最初から腕が無かったみたいに、完璧な美しさなんだ」 唐突な物言いには、今日で何度驚かされただろう。 意味が判らないと私は溜息をつく。なんだって彼は、訳の判らないことばかり言うのだろう。 「全然、判らない」 「ミロのビーナスは何かが足らなくても十分美しいんだ。半年マナに会わなくて、まるで何かが欠けたみたいだったのに、思い出は綺麗なままだった」 それって、それで十分っていう事なのかと思って。 でも足りない分は、どこかにあるって事だろ。 欠けた部分は、やっぱり必要なんだって気がついたんだ。 「・・・ビーナスの腕と、私と。関係がまったく見えない」 「欠けて足りなくなった部分があっても、十分綺麗なんだ。だけど俺が欲しいのはそれじゃない」 「・・・なぞなぞ出してるつもり?」 「違うって。俺にはマナが必要ってこと」 「だから嫌いになれないって?時間を置いても無駄ってそういうこと?」 「そういうこと」 にっこりと笑って、彼が最後のカーブを曲がった。急なカーブに彼の身体も傾いで、差し出された腕も、頼りないのに何故か私はその手を取った。 「答えはまだ要らない。いつか言おうと思ってたことだけど、今言うことじゃないから」 「聞かなかったことにしろ、と?」 また無茶苦茶な事をと、私は呆れ返って彼を眺める。困り果てた顔で、彼は車を止めるスペースを探している。 「俺だって、もっとキメたこと言いたいからさ。一次選考ってことで、留めておいて」 文学青年らしい言い方をする彼に、私は噴出した。 「一次選考も通らなかったらどうするつもりなのよ」 「その時はまた"嫌いじゃない"から初めてくれる?」 きいと音を立てて止まった車。ぐっと引いたサイドブレーキが音を立てて、これまでの穏やかなドライブを中断させた。 思い返せば、私たちの付き合いも嫌いじゃないから始まった。 嫌いじゃないから時間を過ごして、嫌いじゃなかったから身体も合わせた。 「それって・・・」 すごい殺し文句だ。何も言えない。 妥協の様に見えて、私達には確信をつく言葉。 「半年も待てたんだ。この先も待てるよ、きっと」 どこか確信めいて彼は呟いて、にっこりと笑った。 「じゃぁ、その間。ビーナスの腕でも探しに旅に出れば?」 悔しくなって、私はまた彼を突き放す。どこかに行ってしまえ、行ってまた、時間を空けて欲しいと思う。 この半年で彼が答を探したように。私にも答えを出す時間を与えて。 だって唐突過ぎる、こんなの。私はその半年で彼を追い出そうと必死だったんだから。 「いいよ。約束は取り付けたも同然みたいだから」 言われて私は、自分の言葉が彼の言葉を肯定している様だったのだと、今になって気がついた。 この先も待てると言った彼に、その間待っていてとまるで強請るかのように。 嫌だ、こんなの。馬鹿馬鹿しい。 思えば半年前と変わらない彼が、変わらない口調で切り出した言葉も、与えてくれる優しさも何もかも、変わっていないから嫌だ。 嫌だ、嫌だ、嫌だ。 突き放したはずなのに、心の中から追い出そうと必死だったはずなのに。 どうして・・・。 「こんな奴、嫌いじゃないんだろ」 呆然と呟くと、それはいいと彼が笑った。 |