- Short Story FIGHT CLUB - 第10回 投稿作品

 

「 片腕を探して 」

 




 遠くで正午を告げるサイレンの音が響いていた。静かな空間を際限なくこだましていく音に、私は知らずのうちに眉を顰めて息を付いていた。
 寄りかかったブロック塀にも微かな響きが伝わって、穏やかな空気が散り散りになっていく気がした。
 煙草の先、ゆるり立ち上っていく煙を見送って、私は追いかけるように煙を吐き出す。
 青い空に昇っていく煙が、まっさらな青空に雲を作るかもしれない。
 ぼんやりと思っていくつも吐き出していく。
 繰り返し空へ向けて吐き出す灰色の煙。空一杯に吐き出す事が出来たら、今日の天気をひっくり返せるだろうか。
 なんていい天気なのだろうか。馬鹿らしいくらい雲ひとつ無い空。
 遠くから駆けてくる小さな足音、賑やか過ぎる騒ぎ声。それを見守る様に後ろから歩いてくる大人達。賑やかな一団が目の前を通り過ぎて、その間際、集団からちらり向けられた視線。
 投げられた訝しむ様な視線に、ぴくりと目尻が攣り上がって牽制する。怯えた様に、けれどそれまでの賑やかさは消えずに立ち去っていく大人達。
 馬鹿らしいと、口を付いていた言葉。誰にも届かずに響く。


「愛美ちゃんかぁ。愛しく美しいなんて、すげぇいい名前」
 擦り寄ってくる男から、纏った煙と酒の匂いがしていた。随分と濃度の高い匂いに、私は長居しすぎたのだと悟る。
 人数合せだったか、それとも退屈しのぎだったのか、参加した理由ははっきりとしない。声を掛けられて断る理由が見当たらなかった、それだけで。別に人恋しかった訳でも、男が欲しかった訳でも無かったのに。
 目が覚めたらチープなホテルの一室で、相変わらず酒臭い息を吐いて眠っている男の隣、全裸で横たわっていた私。
 人の上で好き勝手やってくれた男は、行為が終わるとすぐにベッドに倒れこんだ。腹の上にこびりついた精液は、かさかさに乾いて気持ちが悪かった。後始末も何もしない不躾さの上に、ひどく淡白なセックスだった。
 シャワーを浴びようとベッドを抜け出す際、何故かこんな男を気遣ってそろりと足を付いた自分に、とてつもなく嫌気がさした。
 脱ぎ散らかされた服。山になって詰まれた服の中から、指先で摘んで男の服を放る。男の下着と絡まるように落ちていた自分のブラジャーに、訳も判らず泣けてきた。
「・・・もうチェックアウト?」
 もぞと毛布が動いて、中からくぐもった声が聞えてきた。それに答えずにいると、ずぼりと勢い良く飛び出した腕が私の腰を掴んで引き寄せた。
 さわさわと腰のラインを撫で付けてくる腕を思い切り叩く。
「朝から元気ね」
 ぴしゃりと音を立てて払ったはずの腕は、性懲りも無く絡み付いてくる。
「しょうがねぇじゃん。酒飲んでると、どうも勢いに欠けてさ」
 どうやら昨夜の挽回をしたい男が、朝一番の性欲を私で解消しようと誘う。
「それはご愁傷様。だったら誘わないように」
 酒の勢いで誘う男も男なら、乗る私も私だ。
「愛美ちゃん、帰りたくなさそうだったし」
「随分と都合の良い解釈ね。でも、もう結構」
 びしゃりと容赦なく叩いた腕は、赤い手形が浮かび上がっていた。それでも怯まず絡んだままの腕に、私は指先でぎゅうと抓り上げた。途端、毛布ががばりと起き上がって、今度は両腕に絡み取られてベッドに引きずり込まれる。
「後悔してる?俺と寝たこと」
 寝ぼけているか、にやけているかと思っていた顔は、思いのほか真剣な表情で私を見下ろす。
「後悔させたくないんだよね。仕切り直しさせてよ」
 人の足の間に身体を押し進めて、私をベッドに縫い付けて男は呟く。
「もう一度会ってよ。今度は酒抜きで」
「嫌だって言ったら、どうするつもりなの」
「しょうがねぇから、もう一回やる」
 ずいと腰を押し進めて、半ばまで立ち上がったものを主張する。
「やりたいだけなら、他を当たって」
 見上げて睨み付けると、男は苦笑しながら腕を解いた。がしがしと髪を掻き乱して、それから背を向けて息を付いた。
「そう言われると、どうしようもねぇじゃん」
 それだけじゃないんだから。と、背を向けたまま男が呟いた。
 その背中が妙にしょんぼりとしていて、知らず私は声を立てて笑っていた。
 引き締まった背中。肩甲骨から流れる程よい形の筋肉が、ぎゅっと捻ってこちらを振り向いた。逞しい腕がベッドに支えを作って、じいと私を覗き込んだ。
「言ったよな、俺。探してるもんがあるって」
 寝起きの所為で擦れた声が、身体を重ねた瞬間を思い出させた。ぞくりと這い上がる何か。誤魔化そうとして、私は声を掛ける。
「・・・運命の恋人、だっけ」
「そ。それが愛美ちゃんだって言ったら、すげぇ笑ったよな」
 眉を顰めて困った顔を作った男は、殺し文句だったんだけど、と息を付いた。
「それで殺される女が居たら笑い話ね」
 キスをしようと男が屈めた上半身を押し返しながら、私はベッドから抜け出す。後ろで残念そうな声が聞えて、それがあまりにも子供じみた声だったのでまた笑った。
「でも、マジなんだけどな」
 途方に暮れたという表現がぴったりくる情けなさで、男が呟いた。

 帰り際、押し付けられた紙切れ。汚い文字で書かれた名前と電話番号。
 初めて男の名前を知って、だからといってどうとも思わない自分が居る。
 なのにどうして、思い出すのだろう。


「ミロのビーナスって知ってる?あれって、腕が無いだろ」
 酒の席で唐突に掛けられた言葉。
 だから何と無言の視線で男に尋ねた。言葉に起こすのが億劫なほど、酔いが回っていた。
「不思議なもんでさ、腕が無くても見事なプロポーションなんだよな」
 愛美ちゃんもそうなんだろ。と、男が戯れに触れてくる。それがきっかけになって、確認しようかとホテルに入った。
 服を脱がしながら男は、相変わらずミロのビーナスについて語っていた。
「だけど、どっかに腕はあるんだよ。そのこと忘れて、美しいって崇めるんだぜ」
 肌蹴られていく服が肌寒さを誘った。走り抜けていく鳥肌に、男はいとおしげに唇を寄せて、思い出したようにまた呟いた。
「俺はさ、その腕を探してんの」
 切り離せない大切なもの。あるはずの大切な部分。
 腕が無くても美しいビーナスの像。本人はきっと今も自分の腕を捜しているはずだと、男は愛撫を施しながら語った。
 それが男の言う運命の恋人。
 今はどこかで、自分から離れて埋もれてしまっている。だから探してやらなければならないのだと、酔いで呂律の回らない言葉が告げた。
 誘われて持ち上がる快感が私の理性を押し流さなかったのは、男の話に興味があったからかもしれない。
 誘った女をベッドに押し倒しているその時に、運命の恋人について語る男の目が、子供っぽく煌めいていたから。そんなところに少し騙されて。
「愛美ちゃんがそうだって言ったら、怒る?」
 ふいに弄んでいた胸から顔を上げて、男が私を見つめた。真剣な瞳が、けれど酔っ払っている所為で半眼になっていて、訳が判らないと私は笑った。
 何を馬鹿な事をと、一時の相手にそんな口説き文句なんてと、それはもう大げさ過ぎるくらいに笑い飛ばした。
 気を損ねたのか、男はそれきり何も言わずに行為に勤しんでいた。私を繋ぎとめていた理性もそのうち弾け飛んで、気が付けば仲良くベッドで朝を迎えていた。


 その夜限りの男という存在は、今までにいくらでも居た。恋人だと名乗る男を掻き消したくて何人も、何度も。
 けれど重ねた夜も行為も、何も掻き消してはくれなかった。
 結婚という切り札を使って私を繋ぎとめようとする恋人が、何もかも知っていて目をつぶる。その見せ掛けの寛大さがとてつもなく嫌だった。
 嫌で嫌で、仕方が無くて。
 目の前にぶら下げられた人生のゴールが、終わりを告げているみたいで。
 そんなところで終われないとばかりに、私は知らない男と寝た。後腐れない関係が終わればすぐに、何も知らないという顔で恋人が迎えにやってくる。
 飲み会に誘われたと出かけていけば、ゆっくりしておいでと彼は言う。帰りは迎えに行くからと、電話だけはきちんとしてと、それしか言わず送り出してくれる。
 それが嫌で仕方が無くて。
 恋人が嫌いだと言った煙草を始めてみたり、好きだと言った長い髪をばっさり切ってみたりしても、やはり何も言わず咎めもしない。
 そういう所全部、嫌で仕方が無かった。
 見繕いもそこそこに化粧だってしないままで、私はぼんやりと迎えの車を待っていた。
 ブロック塀に寄りかかって煙草を銜えたまま、ただぼんやりと恋人を待っていた。
 ゆるり立ち上ってく煙を追いかける様に、私は灰色の煙を空へ送る。どんよりと雲って雨くらい降れば、迎えに来てくれる理由だって付くのに。
 ただ私が彼女だというそれだけで、迎えに来る恋人の気持ちなんて判らない。
 好きだったのに、いつの間にか遠いと感じる。
 世に言うマリッジブルーだと周りは笑って、恋人もしたり顔で受け止めてくれるから、私自身もそうなのかと思ったりした。
 でも、違う。気が付いたのは私だけだった。

 ミロのビーナスは、腕が無くても十分美しいんだ。

 そんなセリフ、似合いそうも無いあの男が呟いて。そのギャップに驚いた私の心は、それきりどこかで狂ってしまったのかもしれない。
 運命の恋人という、練乳ぶっかけたような甘い言葉に騙されたわけじゃない。
 恋人が嫌いになったわけじゃない。
 男を好きになったわけじゃない。
 ただ、違うのだと気が付いた。それだけ。

 目の前に車が止まった。ウィンドウが開いて、今更の朝の挨拶が掛けられた。
 悔しさに煙草を靴底でひねり潰して、挨拶の代わりに背を向けた。

 馬鹿らしいと、何度目だったか判らなくなった言葉を呟いた。



あとがき

 

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