- Short Story FIGHT CLUB - 第11回 投稿作品
「 沈黙の境界線 」
「どうしよう」 ケンちゃんどうしよう。先程からずっと、隣から千尋の泣きそうな声が聞こえていた。困り果てた声が咎めるように謙太の名前を呼び、セーターの袖を縋るように握り締めて、くいくいと何かを求めるように引っ張り続けられていた。 だからなんだと、どうもこうもねぇよと、ぶつぶつ返してはいたけれど。謙太は心の中では千尋と同じ言葉を繰り返していた。 どうしよう、と。 「ねぇ、ケンちゃ……」 「うるせぇ!黙ってろ」 オレが悪いわけじゃないんだ。 堪えられなくなって、謙太はずっと押さえていた声を上げた。びくんと隣で千尋が身を竦めるのが判った。と同時に、引っ張られ続けていた袖もぴたりと動きを止めた。ただ、触れたままの手は僅かに震えて、変わらずに視線だけが謙太に向けられていた。 学校帰りに見てしまった。学生服姿の数人に引きずられる様にして、空き地に連れ込まれるクラスメイトの元治の姿を。最初に見つけたのは千尋だった。 元治君が。そう呟いた千尋の口を塞いで、謙太は草むらに飛び込んだ。無意識の行動だった。それからずっと千尋はどうしようとしか言わず、謙太はその声を無視し続けていた。ただ黙って、謙太は目の前の出来事を静観していた。 元治は空き地の隅のブロック塀追い詰められて、中学生だろうか数人に囲まれていた。空気を振動させるような張り上げる怒鳴り声と、時折聞こえてくる元治の怯えたような短い悲鳴が届いていた。ごめんなさいと、許してくださいと、何を謝っているのか判らないのに何故か、ざまあみろとそう思った。 「だってアイツが悪いんだろ。だから謝ってんだ。そうに決まってる」 「でも元治君泣いてるよ。助けてって言ってるよ」 聞こえるでしょうと、謙太の袖口が再び握り締められた。今度は手首まで掴まれて、謙太は鬱陶しくなって振り解いた。自分も微かに震えていたのに気が付いて。 どうしてオレが。拳を握り締めて謙太は吐き出した。 「オレ達は、アイツにいじめられてたんだぞ!」 いい気味だと思った。ざまあみろとも。 心の中、身体の中。湧き上がってくるものが何なのか判らない。乾ききった唇でこくんと唾と共に飲み込んで、無かった事にしようとした。 今、見ていることのすべても。 翌日。緊急の全校集会が開かれた。話の内容は昨日目撃してしまった出来事の結果。クラスメイトの元治が高校生にカツアゲされたという事実と、全治二週間の怪我をしたというそれだけ。ただそれだけなのに、隣で体育座りしている千尋の身体がぎゅっと縮こまっているのが見えた。 「黙ってろよ」 こっそり耳打ちすれば、びくんと大げさに肩を震わせて千尋が振り返った。噛み締められた唇が何かを言おうと開かれる寸前、謙太は睨みつけて封じた。 だって、とその唇が動いていた。どうしてそう言っていると判ったのか、謙太に不思議な事なんてひとつもない。昨日千尋が散々口にしていた言葉だったから。 「だってもクソもあるかよ」 返せば千尋は悲しそうな顔をして、ただ緩く頭を振っただけだった。だってとも言わなかった。 怯える必要なんてないじゃないか。アイツは罰が当たっただけなんだから。 まるで自分にもそう言い聞かせるように、謙太は胸の内で繰り返した。 「登下校の際はなるべく友達と帰るように。何か知っている事があれば、担任の先生に報告しなさい」 全員注意するように。ひゅわんと音を立ててマイクが切れて、全員起立と声が掛かった。よろよろと立ち上がる千尋が、最後に一度だけ謙太を振り返って言った。 「そんなの、良くないよ……」 途切れ途切れの言葉が立ち上がる物音にかき消されて、なのにどうしてだろう謙太にははっきりと届いていた。 何が良くないってんだ。不貞腐れて謙太は返した。 小さい頃からいつも仲の良かった千尋との間に、言われも無い噂を立てられた。囃し立てられるくらいならまだ良かった。気弱な千尋が涙ぐむ度、庇い立てに現れる謙太に腹を立てたのか、元治のちょっかいはいじめに変化した。 机の中、下駄箱の中ゴミが詰まっていたり、教科書が無くなったり。給食の牛乳が無かったりすることも。些細なそれらは、傍から見れば危険因子にも見えていたのかもしれない。反論の声を上げれば、ターゲットは次へ向かうと。まるで何も見えていないかのように、クラス中の視線は他を向いていた。 その事を忘れているわけではないだろうに、千尋の言葉は元治の事ではなく、ただ見ていた謙太に向けられていた。 「ちくしょう」 謙太はぽつりと呟いて体育館履きを乱暴に袋に詰めた。引っ掛けて履いた上履きの踵を踏みつけて足早に教室へ向かう。 千尋が怯えるのは謙太には良く判る。昨日目撃した事は、いつも自分達がされていることだから。でもそれなら、千尋だって同じ気持ちになったっていいのにと謙太は思う。思うからこそ、腹が立つのだろうとも。 「ケンちゃん」 呼び止められて振り返ると、千尋が歩み寄ってくるのが見えた。 「まだ拘ってんのかよ。いいじゃないか、元治はしばらく休むんだし、平和になっただろ」 「先生に言わないと」 「言ってどうすんだよ!オレ達がいじめられてることだって、言っても何もしてくれなかっただろ」 「だって……」 「だってもクソもあるか!」 みんなと仲良くしなさい、今は大事な時だから。それしか言わない先生に、何を言っても無駄だというのに。先生も元治に手を焼いていたから、本当は厄介な事はしたくなかったのだろう。卒業を間近に控えている今、問題を起こさずに中学へ送り上げる。それが先生の仕事なのだろうから。 告げれば千尋は俯いて、ぎゅっとスカートを握った。綺麗に切りそろえられた前髪の向こう、今にも泣きそうな表情だけが見えていた。いつだってそう、千尋は余計な事に泣いたりする。元治にちょっかい出されても、文句も言えずにいつも泣きそうな顔だけしていた。 「お前がそんなんだから、いつもいじめられるんだろ」 元治に何かされてもただ泣いているだけで。健太が庇いだてした事で事態は更に悪化したから、だから先生に言った。けれど何も変わらなかった。先生もクラスメイトも、次は自分の番だと誰もが口を閉ざしていたから、仲間は増えなかったけれど、いつまでたっても終わらなかった。 だから決めた。誰にも頼らない。誰もあてにしない。 「卒業したら全部終わるんだ。だから黙ってろ」 後数ヶ月もすれば卒業する。元治は親の理由で名前が変わって、中学入学を機に引越しをするというから、だからそれまで我慢すればいい。元治が居なくなれば何もかも終わる。クラスメイトも見て見ぬ振りをしなくてもいい、自分達も我慢しなくていい。何もしてくれない先生とも別れて、それで全部が終わる。それが謙太の答えだった。 「でも」 ぽつりと千尋は告げて、それからぐいと顔を上げた。まっすぐな目が謙太を見据えて、それから意を決したように息を吸い込んだ。 「そんなの、みんなと一緒だよ」 きっぱりと言い切って、千尋は踵を返して駆け出した。がやがやと賑やかな廊下を駆け抜けていく背を、謙太は追いかけることが出来なかった。引き止めて黙っていろと言えば良かったのに、謙太は悔しくてそれさえ出来なかった。 教室へ戻ってしばらくしてから、先生と千尋が戻ってきた。先生に借りたらしいピンク色のハンカチでごしごし顔を拭いながら、千尋は席についた。謀られた席替えの際、謙太と隣同士に据え置かれた千尋の席に。 クラス中の誰もが泣いている千尋を見ていた。振り向いたりしながら向けられる視線に、いつもは知らん振りするくせにと睨みつけて、謙太は千尋に声をかけた。 「なんで泣いてんだよ。言ってすっきりしたんだろ」 次は自分が呼ばれる。謙太は溜息を吐き出した。 「先生も一緒だった」 告げて千尋はわんわん声を上げて泣いた。 「だから言ったじゃないか。言ったって何もしてくれないんだって」 突然泣き出した千尋に、びっくりしたようにクラスメイト達から視線が届く。ざわめく教室の中を宥めるように先生の声が響いた。 「みんなも、悪い中学生が居るから気をつけましょうね」 その声で、みんなの千尋を見る目が変わった。千尋ちゃんもなんだという声がどこからか聞こえてきた。ヒガイシャなんだ、カワイソウ。そんな声がひそひそ周りから上がる。いじめられてたから仕方が無いなんて声も聞こえて、謙太がムッとして立ち上がろうとした時、隣から伸びた腕が袖口を掴んだ。震える指先がきつく袖を掴んで、何かを言いたそうな視線が謙太を見つめていた。 「先生もね、一緒だったの。私たちと一緒だったんだよ」 小さな声がそれだけ告げて、引っ張る手から力が抜けて。ごめんねと千尋はそれだけ言って手を離した。掴まれていた袖口は、伸びきるほどの力ではなかったのに何故か、だらしなく伸びてしまったような気がした。 「見てたの。私達のことも、それから……」 見てただけだった。ぐすんと鼻を啜りながら千尋は振り絞るように告げた。 「だから言ったんだ……」 黙っていればいいんだって。 謙太は宥めるように千尋の肩を叩いて腰を下ろした。腰掛けた椅子はがたんと音をたて、クラスの空気が一瞬にして静まった。苛立ちの現れた物音に、先生の視線が謙太に向かう。 「卒業まで残り僅かですよ。みんなでいい思い出を作りましょうね」 まっすぐ向けられた先生の視線。ただじっと謙太にだけ向けられたそれには、言葉とは裏腹な何かを乗せて届く。後少しで終わるから。そう思っていた謙太にはしっかりと。 誰にも頼らない。誰もあてにしない。 謙太は息を吸い込んだ。新たにした決意と共に。 「あと少し、だもんな」 声を上げた謙太に、視線が集まった。隣からは縋るような視線が、クラスメイト達からは残り僅かな学校生活に少しだけ寂しそうな視線が。 そして、先生からは同意を篭めた視線が届いていた。 |