- Short Story FIGHT CLUB - 第6回 投稿作品
「 思い出せない 」
甘い、甘い、柔らかな香り。 赤い花を思わせるその香りは、華やかで甘く、鼻腔をくすぐる柔らかな香り。 その甘さは媚薬の様に鼻腔に名残を残し、その柔らかさは不思議と心を落ち着かせた。 甘く、柔らかな香りがそこに在った。 ある日、図書館で出会ったその香りに僕は釘付けになった。 図書館の中でもとりわけ奥の、歴史文献類が置かれているあまり人がこないような場所へ、僕は本を探しに進む。普段はまったくと言っていい程利用しない図書館。そして更に縁のない部類の本探し。今日も僕はここで、進級が掛かっている大事なレポートを書いていた。 今回の題材を少し気張りすぎたようで、このレポートに手をつけてから、僕は一日のほとんどを図書館で過ごし、それがもう一週間になる。慣れとは恐ろしいもので、一週間も通い詰めると最初は違和感たっぷりで居心地の悪かった図書館も、体中に染み付いてしまったこの辛気臭い匂いも、今は妙に落ち着いてしまった感がある。 その成果は今日になってやっと形になっていた。ここ数日でレポートも大まかな概要まで書き上げ、そろそろ本題へというところまで来たところで、ぴたりと手が止まってしまった。でもこれがうまくいけば、進級間違いなしの確信はある。提出期限はあと一週間と迫っているが、この調子なら何とかなりそうだった。 焦りと、どこか余裕な心が、僕の中でぱちんとぶつかり合って、緊張が解けてしまった。 ふぅっとため息をついてペンを置いた次の瞬間、ふと良いアイデアを閃いた。それはもう、飛び切りのアイデアのように思えた。 その閃きは我ながら良いと興奮し、資料になる本を探しに慌てて図書館の奥へ本を探しに行った。うまく資料が見つかれば、インパクトのあるレポートが出来上がる! 僕は確信と成功を頭の中に思い浮かべながら、本棚の間を行き来する。この辺りの書籍はほとんどの人が利用しない為、この場所の空気はいつも一度温度が低いような気がする。あまりに利用されない為、図書館の司書でさえあまり立ち入らないのではないかと思ってしまうような場所だ。僕もこのレポートがなければ、ここに本を探しにくることも無かっただろう。ふと本棚の辺りを見回して見ても、僕以外の人影を見つけることは出来ない。 それほど、寂しく日当たりも良くない。古書の持つ古臭い匂いと沈んだ空気とが辺りを包み、静かな図書館の中を更に沈黙させているそんな場所だった。この場所へ足を踏み入れる度、静かな図書館の中でも更に静かさを要求されているようで、息苦しさを感じてしまい苦手だった。 それでもとびきりのアイデアの為に、いつもよりずっと浮き足立った気分で通路へ足を踏み入れる。 目当ての本を探してその隣の本棚へ移動した時。 そこに、在った。 通りすがりにいつもとは違う匂いがそこに在ったのだ。 甘い、甘い、柔らかな香りが。 まるでそこに"香り"という塊が置き忘れられたかのように、はっきりとした存在となってその場所に留まっていた。嫌味の無いその香りは、辺りに漂う沈み込んだ空気を一瞬で彩った。ぱっとその香りに捕らわれ、すぅっとその香りを吸い込む。その一連の動作が自然に思えてしまう、むしろ自然にしてしまう、魅力的な香りだった。吸い込んだその一瞬、そのほんの一瞬で鼓動が一つ増える。 その香りが女性のもののように思えて、恥ずかしげもなく香りを吸い込んだ自分に赤面し、香りだけ残していったその人物を思うと、どきりと胸をときめかせてしまう。その場に鮮やかに散った香りが、僕にはとても新鮮だった。僕の足はそれ以上歩くことを拒み、残り香に包まれたまま僕はゆっくりと香りを吸い込んでいた。 古書の乾いた匂いの中、それは一際目立つ香りだった。 その香りの持ち主の姿は見えない、先程までここに立ち止まっていたのだろうか。その場所にだけ植えつけられたように、鮮明に残っている。 どこかで嗅いだことのある香りのような気もした。初めて出会う香りのような気もした。 印象的ではあるが、香りという形の無いものだけに、曖昧すぎてわからなくなってしまう。 僕は思わずその香りの持ち主を探していた。この香りを身に付けていそうな若い・・・素敵な女性を。 隣の本棚も、その先の通路も、いたるところを歩き回りながら僕は探していた。頼りになるのは僕の鼻だけで、僕はほとんど目をつぶってその香りを追っている。 我ながら異常な行動だと理解している。その香りが女性のものではないか、そう感じた瞬間に辺りをきょろきょろとしてしまった自分も、香りを胸いっぱい吸い込んだ自分も。 けれど、不思議と気になって仕方が無いのだ。 普段は香水なんてもってのほか、コロンだってつけない。制汗剤の香りも何でもいいと気にせずに使用する程度の僕が、なぜこんなにもこの香りに惹かれているのかは、僕自身だってわからない。 古臭い本の匂いに包まれたこの空気を、一瞬にして彩ったその香りの正体を確かめたい。ただそれだけの気持ちなのか。それとも、その香りがただ単に自分の好みの香りだっただけなのか。 鼻腔の奥深くに刻まれたその香りはひどく懐かしいようでもあり、僕の心の中の"何か"をくすぐる。 それが何か、どうしてこんなに必死なのか、それさえ考える時間が惜しいくらいに、僕の脳はその香りを追いかけ、鼻をひくつかせて歩いている。ただ、本能的にその香りに惹かれていた。 僕が通路を行き来するたび、静かな古書の匂いもふわふわと流動し、図書館の沈んだ空気が浮きだって、窓際の日向の空気と埃の匂いがその香りをかき消す。鼻腔の奥にあった香りが、次第に今までそこに漂っていた、沈んだ空気の匂いに変わっていく。 そもそも、この辺りの本棚はほとんど人が行き来しない場所だった。僕だって今回のことがなければ一生縁が無いだろう、そう思っていた場所なのに。 ・・・そうなんだ。誰かが居たなんて思い込んでいただけなのかもしれない。 その香りに似合いそうな人どころか、誰かがそこに居たということ自体、なんだかあやふやになってしまったような気がした。 あの時、香りだけが妙にリアルに存在していた。ただ、それだけだ。 むなしい気分で目的の本を探す為に元の場所へ戻った時、あの香りはきれいさっぱり消えていた。僕の中に記憶した香りもすっかり消えてしまっていた。 辺りに漂うのは、古臭い乾いた古書の匂いと、沈んだ埃っぽい空気。ただ、それだけだった。 レポートを書くためにテーブルへ戻ってくると、探し物の本を忘れていた。そして一番大事な、先程まで書きかけていた内容までもすっかり忘れてしまっていた。 確か、本題に入ろうとしていた時だった。ここは一つ、インパクトのある例題を持ち出そうとふいに思い立ち、資料を取りに席を立った。参考になる本を探して歩き、引き止められた香りに惑わされ・・・。 そこまでは覚えている。 けれど、何度頭の中で繰り返しても、ふと閃いたあの一瞬を思い出せない。 ・・・さっぱり、思い出せない! 書いていた内容も、探していた本も忘れて戻ってくるだなんて。自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。本さえ手にしていたら、思い出したかもしれないのに。探していた本がなんだったかも忘れていた。 あんなにも印象的な香りだったのに、である。あの香りまで忘れてしまって。書きかけのレポートの続きまで忘れてしまって。 ・・・僕はなんて馬鹿なんだ! 印象的だったからこそ、それまでしていた事をすっかり忘れてしまったのに。印象的だったにも関わらず、その香りさえ忘れてしまう人間の嗅覚の弱さに今更気づき、僕はひどく落ち込んだ。 今度あの香りに出会ったら思い出すだろうか。 ・・・このレポートの続きを。 一生縁がないと思っていた内容のレポート、せっかく閃いた飛び切りのアイデア。今の僕にとって、一番大事な書きかけの内容が。 ・・・再び戻ってくるだろうか。 今一番思い出したいのは、あの時、あの瞬間の僕の閃き。 |