- Short Story FIGHT CLUB - 第7回 投稿作品

 

「 変らないもの 」

 




「貴之、気をつけてね」
 見上げた太陽が、まだ朝だというのにぎらぎらと眩しい。
 玄関で母が夏期講習に出かける僕を見送る。その声に後ろ手をあげながら応えた。庭に回り自転車を押して門を出る時も、母はそこに立って僕を待っていた。ちらりと振り返ると、母はにんまりと笑う。マシュマロみたいな頬をぐっと持ち上げて。
「まったく、素っ気ないったら。誰に似たのかしら?」
 といつものひとり言を付け足して、母は豪快なため息を一つこぼした。
「今夜はカレーよ」
 気を取り直したように母は言った。訊いてないのに、毎朝出かける時には必ず夕食のメニューを聞かされる。『夕食が何かわかっていたら、早く帰って来たくなるでしょ』というのが、母の言い分。
 子供じゃないんだからって何度も言ったけど、毎朝の僕らのやり取りはずっと変わらない。母と同じ血が流れていると思うと、まいったなぁという気分になる。
 大声で送り出してくれるのも、僕が家を出てまっすぐ学校へ向かうのを間違いなく見届ける姿も、本当は嫌いじゃない。子供扱いされてしまうと、どうにも照れくさくて仕方がないだけで、友達と比べても僕は割りと母が好きなんだと思う。
 僕の父は僕が生まれてすぐに交通事故で死んだ。生まれてから今の今まで、僕の親は母しかいない。だからなのかもしれない。そう思うことにしている。

 午前中の講習を終えて、僕はまっすぐ家に帰る。別に、母の"アレ"が効いて帰りたくなったわけじゃない。子供じゃあるまいし、カレーくらいで飛んで帰る気にもならない。
 ただ。お盆が近かったから。
 お盆やお彼岸になると、母さんは仏壇の前に座ってよくひとりで泣いていた。小さい頃からその姿を見ているからか、この時期は母の側にいてやろうと、なんとなくそう思う。
 暑さにだらけて玄関を開けると、外との気温差に涼しさを感じる。いつもなら出迎えてくれる母がいない。和室からくぐもった母の声が聞えるだけだ。不思議に思って声のする方へ行くと、母が和室の押入れに頭を突っ込んで何かを探しているようだった。お盆の準備だろうか、仏壇の中身が畳の上に出され掃除していた様だ。狭い和室が余計に狭くなっていた。
「・・・何探してるの?」
「提灯」
 押入れに頭を突っ込んだまま、母は言う。手伝おうとして母の後ろに立つと、こつんと足に何かが当たった。視線を送ると父の遺影だった。茶色く煤けた写真立てを慌てて拾い上げて、お詫びにとせっせと磨く。裏の金具の立て付けが悪い様で、手にとって磨いているだけなのにがくがくと音を立てる。そのうち、ぽろりとその留め金が折れた。焦って母を振り返る。母は相変わらず押入れの中にいる。ほっとして、なんとか直そうと写真立てを裏返すと、ばさりと写真が落ちてきた。一枚は父の遺影。その裏に貼りつける様にしてもう一枚の写真があった。
そろりとその写真をはがす。ひどく古い写真だった。十数年前の父がまだ若かった頃のようだ。病室らしい場所で、生まれたばかりの赤ちゃんを抱えている女の人。父がその隣に寄り添うようにして、『貴之』と名前の描かれた紙を胸の前で掲げている。
 何でだかわからないけれど、ひどく胸騒ぎがする。
 写真を裏返すと、そこには撮影したらしい日付とメモ書きがあった。
『昭和五十九年十月 病室にて 妻と生まれたばかりの息子の貴之』
 ・・・どうして。
 どうして母さんが写ってないんだ。
「とうとう、壊れちゃったのね」
 その声に驚いて振り返ると、ふぅというため息ともに、母が提灯片手に押入れから出てきた。僕が困ったように写真立てと二枚の写真を手渡すと、母もちょっと困ったように笑った。
「・・・とりあえず、お昼にしようね」
 誰に言うでもなく、ぽつりとその場にこぼす様に呟いて、母は台所へ向かった。

 僕らは居間のソファに向かい合って座り、そうしたまま数十分が過ぎていた。僕の前には、母が作ってくれた昼食が置かれたままになっている。それに手をつけることが出来なかった。せっかく作ってもらったけれど、食事どころではなかった。
「あの写真・・・」
 何なの、と久々に発した声は掠れていた。
 あの写真、生まれたばかりの僕と。死んだ父と・・・そして。
「あなたの父親の正一郎さんと、本当の母親」
 母はそっと視線を上げて僕を見ると、呟くように言った。
 ホントウノハハオヤ。
 片言の日本語のように、ぎこちない感触で耳に届く。
「僕の母さんは、母さんだろ」
 訳もわからずに僕は言う。当たり前だと思って言った言葉を、母は力なく首を振って否定した。
 母は黙っていた。黙ったまま泣いていた。
 初めて見る母の涙に僕は言葉を失った。何も考えられずにただ母の涙を見つめていた。何が嘘で、何が本当で。何が僕の知らないことなのか、わからなくなった。
「不思議よね」
 それからしばらくして、母は誰に言うでもなくそう言って寂しそうに笑った。
「愛人の私が、あなたを育てることになるとは思わなかった」
 衝撃的な一言で母の話は始まった。
 憑き物が落ちたようにすっきりした顔で、まるで他人事のように話し始めた。いつもの母とは、どこか違うような表情をして。


 ・・・長くて、短い十八年だった。
 正一郎さんに家庭があって、そこにあなたが生まれて。それだけで私は、どれだけ愛しても勝てないのだと思った。正一郎さんは私の元へは戻ってこない。
 そう思ったら、悔しかった。
 あなたを残して二人が死んだ時、これは罰だと思った。私が正一郎さんを奪ったから、あの女は正一郎さんを連れて行ってしまったと。そう思うと、あの女が残していったあなたのことが憎らしかった。だって、あなたはあの女の子供だから。あなたが生まれることで、正一郎さんが離れてしまったから。
 だからあなたを育てることにしたの。あの女が出来なかったことを、私が一生をかけてやり遂げてやろうって思った。
 ・・・バカみたいでしょう?
 でもそんな風に思えたのは、最初だけだった。
 何も知らないこの子は、私を母だと思っている。私は勝った、って何度も思った。だけどそう思った後、いつも後悔した。人が死んで、いい事なんてあるわけないもの。あなたにとっては本当の両親を失ったんだもの。そう思うと不憫で仕方がなかった。
 正一郎さんの分まで、あなたを愛そうと決めた。
 それからずっと、あなたに嘘をつくことになってしまった・・・。

「ごめんなさいね」
 ぽそぽそと、母は囁く様に話した。僕に話して聞かせるというよりも、どこかひとり言の様で、僕は一言も口を挟めなかった。ただじっと、話し続ける母を見つめていた。
 父の名をすらりと呼ぶ母の唇が、ほんの少しだけ艶やかに見えていた。あぁ、この人は。僕の母親じゃないのかもしれないと、その一瞬感じた。
「私は母親だと偽っていた。けれど、本気であなたを怒れるくらい、あなたを愛しいと思えるくらいには、母親だったと思うの」
 そうはっきりと言って母は一息ついた。
 それで終わりというように、母は黙った。そして僕の言葉を待っているわけでもなく、ただじっと扇風機を見つめていた。
 本当は父の愛人だった人が、僕の母と偽って十八年。僕を取り囲む人達は、世間は知っていたのかもしれない。僕の親戚はもちろんだろう。ほとんど顔をあわせたことのない親戚達を思えば、母が僕の母だと名乗らなければならなかった原因が、ここにもありそうだった。
 生まれた時から、僕はこの人の顔を見て育ってきた。どんなときも僕の側にいて、僕に愛情を注いでくれたその人を、それが母だといわれれば疑う理由などあるわけがない。それが母ではないと、わかった今だって。僕はそれを理解しても、受け入れたくない。
 僕は、僕の父を知らない。本当の母を知らない。僕の母は、目の前に座っているこの人以外、僕は誰のことも母とは思わないだろう。この人のぬくもりの中で育ってきた十八年間が、それを証明していた。
 覆しようもない時間があった。
 こんな突拍子もない話を聞いたところで、それまでが変わるようには思えなかった。そんなに難しいことではないかもしれない。色々と不都合はあるかもしれないけれど、何も知らなかった今までだってやってきたのだ。これからだってきっと。
 血が繋がってなくても、僕と母は間違いなく親子だと思う。
 この人以外、僕は誰を母と呼ぶのだ。誰がなんと言おうと、僕の母親だ。この人が、なんと言おうと。
「母さん」
 やっとのことで僕は声を出す。母は腫れぼったい目で僕を見た。
「僕の母さんは」
 ・・・母さんしか、いないから。
 照れ臭くて、最後の方は小さな声になってしまった。けれど僕がそう言うと、母ははっきりとわかるように、ほっとしたような顔をした。
「誰があなたを育てたと思ってるの?」
 嬉しそうに言って母は笑う。母は強い人だと思う。思わず、僕は母を見つめてしまう。二つの視線がぱちんと音を立てたようにぶつかった。
「・・・今夜は、カレーだよ」
 見詰め合った時間に困ったように、母は言った。そのいつもの一言に、僕はほっとしてため息をつく。
「・・・なんか、騙された気分」
 気が抜けてしまった。ちょっと笑えない冗談も言えた。
 そんな僕を見て母は笑った。
 いつもの様に、マシュマロみたいな頬をぐっと持ち上げた満面の笑みだった。



あとがき

 

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