- Short Story FIGHT CLUB - 第8回 投稿作品
「 初 恋 」
桜の花びらが、ゆるゆると風に舞っていた。 暖かい、柔らかな春風が吹くたびに、ゆるりゆるりと一片ずつ枝を離れる花びら。その姿はまるで、ふうわりと膨らんだシャボン玉のように頼りなげで儚げで。 毎年同じ場所に立って、同じように花を咲かせる桜。 散っていく様が、これほどまでに優雅だったのかと今頃になって気がつく。 今が春なんだとそう思うたびに、私の心はくすぐったい思い出で一杯になる。 この桜が、手の届かないくらいのっぽに見えたあの頃。 私の心は、その頃まで運ばれていく。 「いやだ!」 大きな声を上げて、琢也は一目散に駆け出していく。それまできつく握り締めていた私の手を乱暴に振り解いて。 その琢也の勢いに、私はぽかんとその場に立ち尽くした。 小学校に入学してすぐのことだったと思う。身体測定の時、パンツ一枚で飛び上がってはしゃいでいた琢哉が、その時と同じくらいはしゃいで迎えた予防接種。 薄暗い保健室までの道のりを、列を作って向かっていた時だった。廊下の床はぴかぴかで、琢也が走るたびに上履きの底がきゅっと音を立てていた。緑色の廊下には、真ん中に白いラインが引かれていた。いつもなら、そのラインからはみ出さないように慎重に歩いたりしていたのだが、その時の琢也にはそんな余裕すらない様だった。 クラスのリーダー格、元気でやんちゃで、やたらと張り切り屋の琢也が逃亡した。 それまでのはしゃぎ様からは想像できない琢也の行動に、先生達は青くなって学校中を探し回っていた。 私は知っている。本当は、琢也は怖かったのだ。 その事はけして口にはしなかったけれど。 「おまえ、怖がってんのか。オレがずっと付いててやるよ」 朝の登校の時からずっと、予防接種のことで頭が一杯だった私に琢也が言った。強がりなのか、気休めなのか、今になっては良くわからないけれど、その言葉に私は勇気付けられていた。 幼なじみの琢也。生まれたときからずっと、どんな時もいつも一緒だった。だからきっと今度も、いつものように守ってくれる。そう思っていた。 ぽかんとしている私を、とんとんと後ろの子が肩を叩いた。前を見ると、着実に私の番が近づいてきている。 「一緒に居てくれるって、約束したのに」 歯を食いしばってそっぽを向いてれば大丈夫だと、自信満々に言ったのは琢也だった。顔が真っ赤になるまで、歯を食いしばる練習だってした。 不安を隠す為に繋いでいた手のひらに汗が滲んでいて、二人ともそれが気持ち悪くて仕方がないのに、それでも離すことの出来なかった手を。 クラスメートの冷やかしを一蹴して、つないでいてくれた手を。 琢也はあっさりと振り解いて逃げ出した。 私は悔しかったのだと思う。琢也は私のヒーローだった。何かあれば必ず助けてくれた。琢也が耐えることが出来たら、付いていてくれたら、きっと自分にだって出来ると確信していたからかもしれない。 それなのに、約束を破って琢也は一人で逃げ出した。 ショックだった。 保健室の前では、みんながそわそわしていた。 予防接種。あの琢也が逃げ出すくらい、怖いものなのだと。これまでにないくらいの飛び切りの恐怖になって襲い掛かってきた。 そんな中、ずらりと一列になって順番を待った。震える思いだった。 順番を待つ列の中にいると、終わって教室へ戻るみんなの表情を見るだけでも怖かった。泣き声も聞えていた。暴れる物音も聞えていた。それでも私はぎゅっと目をつぶって、耳を塞いでじっと順番を待っていた。 一人、また一人と、保健室の中の白いついたての奥へ進んでいく。 とうとう、自分の番がやってきた。もしここに琢也がいたら、私の番はもうひとつ後だった。 逃げ出した琢也を恨みながら、それでもあんな無様な姿だけはさらすまいと、そう思ったのかもしれない。 あの瞬間を、私は良く覚えている。 覚悟を決めた。これまでにないくらいの、とびきりの覚悟を。ぎゅっと腕まくりをして、私は注射に挑む。 銀色の針先が、ぷつりと肌に食い込むその瞬間も、その針穴も、そこからしゅーっと押し込まれる液体も全部。 私はじっと、その目に焼き付けた。そうすることで、琢也よりも強くなれる気がした。一人でも、なんてことないってことを証明出来る気がした。 顎が痛くなるくらい、歯を食いしばった。力をいれすぎて、看護婦に何かを言われたような気もする。その頃には、肌に突き刺さった針の痛さはすっかり感じなくなっていた。 勝った。と思った。 校庭の隅にある桜の木に、琢也が隠れていることがわかった頃。私達のクラスは、すっかり予防接種を終えていた。 教室の窓から、琢也が桜の木に登っているのが見えた。みんなが窓にはりつくようにしてその様子を見ていた。 大きな桜の木だった。今の私が腕を伸ばしても到底回らないくらい太い幹だったと思う。 よくあの木に登ったものだと、今になって思う。 入学式の時、その桜が満開だったのを覚えている。 もうほとんど花びらのない桜の木の中頃に、しがみつくようにして琢也はいた。木をよじ登ろうとする先生から逃れるように、琢也はずい、ずいと枝を伝っていく。そのうち、琢也の重みで枝がしなりだして、わささっと枝が揺れるたびに残りの花びらが散っていた。琢也がしがみついている枝が弓なりにしなって、その先がどんどん地面に近くなっていく。そうなると、その枝にしがみついて、その枝から落ちないようにすることだけで精一杯で、琢也は戻ることも出来なくなっていた。 枝の下では先生が受け止めようと腕を開いているのが見えた。 誰にも捕まるまいと、琢也が無理な体勢で後ずさりしようとした時、枝がぼきんと折れた。 ぎゃーっという、叫び声のような泣き声が聞えた。 クラス中が騒然となったのを思い出す。ぼとりと、まるで木の実が落ちるように、琢也の体が地面に落ちていった。先生の腕から跳ねるようにして落ちて頭を地面に打ちつけたのを、私はしっかりと見ていた。 誰かが、琢也が死んだと叫んだ。 私はもう無我夢中で教室を飛び出していた。真新しい上履きの中に砂が入り込むのがわかった。途中でなんども足をとられながら、私は琢也の元に駆けつけた。 先生達が取り囲むその中に、琢也は倒れていた。校庭の砂が、あっという間に真っ赤になっていた。琢也の額が割れて、そこからとめどなく血が流れていく。先生がハンカチで傷口をぎゅっと押さえていた。 「琢也!死んじゃいやだよ!」 私は叫んでいた。涙をこぼしながら。つい先ほどまで勝ち誇っていた私が嘘のように。 琢也を見ると、顔中血と砂だらけにして、ぐったりと横たわっていた。 「琢也!」 琢也のまぶたがぴくりと動いた。瞼がぐいと持ち上がり、力のない視線でちらりと私を見た。 「六年の予防接種が終わった頃だろう。校医の先生がまだ残っているから急いで呼んできてくれ」 それを聞いた途端、琢也は大きな声を上げて泣いた。 「注射、いやだよぉ」 琢也は、まるでだだをこねる赤ちゃんの様に泣いていた。時々苦しそうに嗚咽しながら、わんわんと地面に響くような大きな声を上げて。 誰よりも強くて、頼りがいのある私のヒーローだった琢也が。 「そんなの、私の琢也じゃない。大嫌い!」 言葉が飛び出していた。 それを聞いて、琢也はまた泣いた。 琢也の脱走は、いまでも小学校の伝説になっている。幸いあの時の琢也の怪我は、大げさに騒いでいた琢也をよそに、小さな傷が残ったきりで軽いものだった。 それ以来、私は琢也を引っ張っていけるくらいに逞しくなった。酒や煙草を教えたのも私だった。追い、抜かれ。背伸びをしながらの二人だった。やんちゃで臆病で、そして思いがけず泣き虫だった私の幼なじみは、それでも私のヒーローであり続けた。 あの事件は今日の琢也の結婚式に、集まった同級生達に賑やかに、そして少し大げさに披露された。 小さな、小さな子供の頃の話。 笑いの中心に居た琢也が、お祝いを告げた私に照れくさそうに言った。 「あの言葉、まだ忘れられないんだ」 大嫌いと突きつけた言葉が、まだ彼の心に突き刺さっている。あれが本心だったのか、あの時の私の気持ちを思い返すことは出来ないけれど、今の私の気持ちを思えば、きっと嘘だったに違いないと思うのだ。 情けない琢也への、子供じみた嘘。 この話で笑う事は何度もあったけれど、あの嘘は未だに撤回していない。 「敵わないよ、おまえには」 何度目かのこの言葉を、今日が最後と思って聞いていた。 小さな、小さな思い出。 私には敵わないと琢也がそう口にするたび、私は苦い顔をして笑っていた。 そして今日の私も、また苦い顔をして笑っているのだと思う。 「私だって、叶わないことはあるのよ」 あなたは最後まで私のヒーローでいてくれなかった。 そう心の中に付け加えて、私はまたひとつ、中途半端な嘘をついた。 今頃になって気がつく。何一つ、本当の気持ちを伝えることが出来なかった。 あの思い出は、いつまで残っていくのだろう。 あの嘘は、いつまで続いていくのだろう。 きっと、同じように桜が咲く限り、ずっと続いていく。 ほんの少し切ないこの気持ちは、くすぐったい思い出とともに残っていく。この気持ちが辛いとか、苦しいとかそんな風には少しも思わなくて。 ゆるゆると風に舞う花びらの様に、ゆっくりと時を刻んで続いていくのだろう。 いつかまた、みんなで笑う日の為に。 桜のように、柔らかな薄桃色の初恋は、優しい嘘で終わった。 |