- Short Story FIGHT CLUB - 第9回 投稿作品

 

「 囚われの身 」

 




 雨が降っていた。どんよりと重たい雲から雨が降る。肉眼ではっきり見えるほど大きな雨粒が、地面を洗うように降り続いていた。しっとりと濡れた空気が温度を下げる。吐き出す呼気は、部屋の中だというのに薄ら白い。
 夏の盛りだというのに、ここ数日続いている雨は今日も止む気配を見せない。ついこの間、梅雨がやっと明けたばかりだというのに。眩しいほどに照った太陽は、何時から見ていないだろうか。乾かずにぶら下げられた洗濯物は、窓辺にずらりと並んで窓の外の景色を覆い隠す。見えたところで、灰色の味気ない空ばかりだ。
 僕は身動きもとれずに、ただじっと身を縮めている。雨が嫌いになったのはいつからだったか。晴れの日は心安く、雨の日は不安に押しつぶされそうになる。憂いた心は、今日の空の様に晴れる事がない。むしろ、雨が続けば続くほどに増していく。
 この雨が早く上がってくれたらと願っていた。日増しに募る不安と、心に巣食う面影を抱えて、すべてから解放される日を待ちながら。憂鬱な日が、今日も訪れていた。
 こんな日はつくづく思う。
 『雨の牢獄』と。
 最初にこの言葉を呟いたのは誰だったかと、ほんの少し前の記憶を戻す。ベッドの中で身体の向きを変えると、節々が軋んでいるように鈍い感覚がする。ぐったりと重い身体は、何も雨のせいばかりではない。
 口に出して呟くと、脳裏に浮かぶ消えない面影が現れる。神経質に寄せられた眉も、不機嫌に色を変えた瞳もすぐに蘇ってくる。彼女は今もまだ、同じ様に思っているのだろうか。
 雨ばかりの澱んだ夏は、まだ晴れずにいる。

 雨の日、決まって温もりはベッド中にあった。寒いと肌を合わせると、そのままずるずると居座ってしまう。朝になり、昼が来て。また夜が来るまで二人でベッドに潜り込んでいた。時折思い出したように抱き合い、それが飽きるとしばらく眠る。腹が空いたと身を起せば、途端にひやりとした空気に包まれて、またもそもそと戻っていく。どうにもならない空腹が襲う頃には、ぼんやりとした頭で起きだして、二人で腹の虫を鳴らすのだ。そんな日ばかりなら、雨の日も悪くは無い。
 全裸の身体を隠すのもそこそこに、彼女がベッドを抜ける。風呂場でシャワーの音が聞えると、仕方ないかとベッドを抜ける。コーヒーを啜ってぬくもりを補充すると、シャワーで温まった彼女が顔を出す。交代とばかりにカップを預けると、背後でぽちゃりと砂糖を落とす音が聞えた。
 シャワーから戻ると食事の用意が出来ていた。雨が続くと買い物に出かけるのも億劫になり、メニューは日に日に質素になっていく。今日はとうとう最後のタマゴと食パンがテーブルに並んでいた。明日も明後日も、このまま雨が続くのなら僕らは飢えてしまうだろう。それでも自分の為に整えられた暖かい食卓に、ほっとしてテーブルに付く。
「いい加減、買い物にも行かないとね」
 食パンをかじりながらそう言うと、彼女は気の無い返事を繰り返した。
 雨の日が苦手なのだと、彼女は出会ったばかりの頃にこぼしていた。女の子特有の、髪がまとまらないとか、化粧が決まらないという、くだらない理由なのだろうと高を括っていたのだが、それらは見事に覆された。
 彼女の雨嫌いは、病的とも言える。身体がだるくなり、何もする気にならないのだという。その日一日は心の隅にカビが生えてしまうのではないかというくらい、憂鬱な気分が居座る。それが長く続けば、本当にカビが生えたかのように、彼女の心は黒く濁る。それなら気分転換にどうかと、梅雨時にベッドを共にしたのが僕らの始まりだった。
 それからしばらくは、梅雨の長雨が僕らをしっかりと結び付けてくれた。今年は恐ろしく梅雨が長い。来る日も来る日も飽きもせずベッドに居た。
 ベッドの中で、彼女は時折ひどくつまらなそうに『雨に唄えば』を口ずさむ。お世辞にも上手いとは言えない彼女の歌も、雨の音しか聞えない部屋の中では十分な音楽になった。
 そんな数日が続いたある日、僕までもがベッドから抜け出せなくなっていた。最初は彼女に付き合っていただけなのだが、まるで彼女の憂鬱を吸い込んだかの様に、僕までもが雨嫌いになっていた。雨の日は薄ら寒くて、隣に温もりが無いと眠ることさえ出来ない。彼女に寄り添い、何時までも彼女の歌を聞いていたい。僕にとってそれは、何よりの幸せだった。
 やっと梅雨が明けた時には、暦はもう夏に手が届く頃だった。それからもしばらく雨ばかりが続いていた。
 くだらない毎日もまた続いていた。朝から雨が降れば、彼女は朝から文句ばかり。それが汚い言葉に変わってくると、僕はどうしようもなくなってしまう。まるで彼女の心の隅までも、汚いものばかりになってしまったかの様に、下劣な言葉ばかりが生まれてくる。せめて身体くらいは素直でいてと、丁寧な愛撫を繰り返しても、それもまた飽きてしまったと文句を言う。
 雨の日が続くと、彼女の苛立ちは募っていくばかりだった。
「雨の牢獄」
 ぽつりと彼女は毒吐く。
 閉じ込められて苦しいのだと。


 彼女は今も、苛立ちを募らせているのだろうか。彼女はきっと、閉じ込められて身動きが取れないのだろう。雨の続く日は、彼女がきちんと食事を取っているのかどうか心配になる。僕が居なければ、寂しく一人でベッドに潜りっ放しなのだ。温もりも抱きしめる腕も無く、彼女は一人で憂鬱と戦っている。
 雨の牢獄に囚われているだろう君を思うと、せめて共に囚われてやりたいと思う。同じ様にベッドに縛り付けられ、同じ様に腹を空かせ、寒くなれば温もりを求めていつまでも抱き合っていたい。それだけで十分、僕らは幸せだったと思う。
 あの頃、そうして一日を過ごすことが、どれほど幸せであったのかを今更に気が付いても、もう後戻りなど出来ないのだと思い知る。
 これからもずっと。と、そう願っていた矢先だった。彼女を失ったのは。

 気がつくと、僕は雨の中部屋を飛び出していた。傘を差すのも忘れていた。彼女の面影がはっきりと僕の目の前に現れた時、居ても立ってもいられず、とるものとらずで飛び出していた。そして、しとどに濡れて思い出す。彼女が呟いた最後の言葉を。閉じ込められて苦しいのだと、吐き出した言葉の先を。
「まるで牢獄ね」
 ・・・あなたの愛も。

 辿り着いた先で僕は泣いた。こんな事ばかり、僕は何日も繰り返している。雨だと憂鬱にベッドに潜り、空を見上げては思い出したかのように彼女のことが心配になる。そうして雨に濡れた頃、やっと思い出すのだ。
 彼女が呟いた、この世で最後の言葉を。
 雨の日が続くと、彼女の苛立ちは募っていくばかりだった。雨が嫌いなのか僕が嫌いなのか、わからなくなっていたのだと思う。牢獄に閉じ込められて苦しいのだと泣いていた。何が苦しいのだと問い詰めれば、泣き喚くばかりで話にならず、抱きしめてやろうと手を伸ばせば、怯えた表情ではね退けた。共に歌おうと誘った時には、彼女は事切れていた。
 あの日から何度も同じ事を廻らせている。この手が殺めたという事実を何度も思い返し、そしていつも、気がつくと僕はここにいる。彼女を葬ったこの場所に、彼女を失った事実だけがあった。
 雨の日は彼女のことばかり思い出す。僕はもう狂っているのだろうか。

 肌を合わせた回数ほど、僕は君に告げていたのかと思い返す。晴れの日に、君の笑顔をどれほど見たのだろうと思い返す。君を愛していたことも、君に愛されていたことも事実なのに。思い返せば儚くて、思い返す度に僕の中で形を変えていく。思い出として美しく留まるものもあれば、なぜかひどく切なくて曖昧な感情もある。何が本当で何が僕の想像なのか、それさえ区別が無くなって、失った事実と共にあるのは、僕の中にいる彼女は色褪せもせず今も美しいということだけだ。
 気だるくもたれてくる身体も、憂鬱な表情も。最期の涙も。吐き出したたくさんの下劣な言葉も、向けられた憎悪もすべて。
 僕の心の中には、君が残していったものばかり。

 まるで牢獄のようだ。
 君にすべてを囚われて。僕は今も苛まれている。
 
 今日も僕は、君の歌う『雨に唄えば』が耳から離れない。責めるように、苛むように頭の中でこだまを返す。真っ赤な傘を差して、雨の中を踊る彼女を思い浮かべられるほど、彼女の歌は未だ耳の奥で響いている。実際に、彼女が雨の日に外に出ることなど無かった。雨になれば文句ばかりで、外に出ようともしない彼女が口ずさむ歌は、なぜかいつも『雨に歌えば』だった。
 皮肉を込めて歌うその声は、僕の中から消えていかない。

 心残りは唯一つ。君はもう二度と、その耳障りな声で歌わない。
 
 彼女を葬った場所を雨が洗っていく。願わくは、土砂に埋もれた彼女の肌も、同じように洗え。そうしてすべてが顕わになったら、僕は楽になれるのだろうか。僕の中の君は、消えてくれるのだろうか。
 すべてが晴れる日が来るのだろうか。
 天気予報は明日もまた、雨だと告げていた。


 まるで牢獄のようだ。
 君への愛は。



あとがき

 

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