≪ その1  〜はじまり〜  ≫

 

 

 

 目を覚ますと、部屋の中は蒸し風呂のように暑かった。
 寝苦しいはずだ。
 エアコンのタイマーはとうに切れていた。昨日の飲み過ぎが原因らしい。ひどく頭が痛いし、のども渇いていた。ベッドから苦労して起きあがると日はすでに傾き始めていて、初めて自分が寝過ごしたことに気づいた。
 それも、とてもひどい寝坊だった。
 汗をかいたTシャツを脱いで、丸めながらリビングへ出ると、さっきまでとは違う涼しい風が流れていた。
「あら、おはよう。じゃなくて、おそようだわ」
 聞き慣れた声に振り向くと、義姉の春子がコーヒーを飲みながらクッキーをかじっていた。
 人の家に勝手に上がり込んで、この人は何を言っているんだろうか。
 つまらない冗談。
 愛想笑いが面倒臭くなって、と同時に自分が半裸であることに気づいて、あわてて部屋へ戻る。
 背中で義姉ののんきな笑い声が聞こえた。
「意識することナイのに」


「ねぇ、ちょっと」
 着替えてリビングへ行くと、義姉は嬉しそうに言った。
「見て、見て」
 指さす先に答えを探しながら、義姉のカップにコーヒーを注ぎ入れる。じれったそうに声をあげる義姉を、はいはいと笑ってのぞき込む。
「ハル、コンタクトにしたんだ」
「そうなの、キレイになった?」
 コンタクトくらいで、綺麗になれるのものだろうか。でも、以前から見慣れていたハルの黒縁眼鏡よりはずっと顔がすっきりして見えるし、心なしか可愛らしくなったような気がした。
 ハルにそう言ってやると無邪気に喜んだ。今年三十五を迎える女性のする笑顔の割に綺麗だと思った。ハルは見た限り目立ったシワもないし、相変わらず僕なんかよりずっと澄んだ瞳をしていた。
「どう?似合う?」
 ぼんやりとハルの年齢を考えていると、間近にハルの吐息を感じて驚いた。ハルの方はと言えば、そんなこと少しも気にしていない様に顔をつきだして訊ねる。
「ねぇ、どう?」
「もちろん、似合うよ。これからはコンタクトにした方がいいよ」
 少し距離を取りながら僕は言った。義姉と言うより友達と言った方がしっくりくる僕らではあるけれど、やはり意識しないと言えば嘘になる。
 兄の奥さんであるけれど。
 コーヒーを飲んで少しすっきりしてきた頭で考える。
 さて、今日のハルの用事は何だろう。
 減っているクッキーの数や、部屋が昨日よりきれいになっていることを考えると、ずいぶん早いうちからここに居たに違いない。
「ところで、今日はなに?」
 ハルのもってきたクッキーに手を伸ばしながら、突然の訪問の理由を尋ねる。ハルは僕の六歳年上の兄の妻で、夫婦で僕の部屋によく遊びに来る。ハル一人でくることも珍しくはないが、こういう時は特別な理由があったりするのだ。
「ちょっと、遊びに来たんだけど・・・」
 ハルは、ぼそぼそと口の中でつぶやきながら僕を見た。
「ちょっと?」
 ハルの様子に引っかかりを感じた僕は、ハルの目をのぞき込んで聞く。
 ちょっと・・・?
「・・・二、三日」
 ため息をついて仕方なく笑うと、ハルもつられるように笑った。
「また、ずいぶん長いちょっとだね」
 そう言って、ソファーの後ろに隠してある(ホントは隠し切れていない)大きなバッグに視線を走らせる。
 四、五日分はあるな。
「またなの?」
 そう聞くと、ハルは困ったようにうなずいた。
「・・・お世話になります」


 ハルには家出癖があった。
 理由は簡単。夫が悪いの一点張り。
 ハルの夫、僕の兄は普通の男である。一般的な夫であり、仕事人間。
 実の弟が言うのも何なのだが、他の家の夫に比べてもうちの兄は負けないくらい、愛妻家である。良品マークをつけて歩いているような人だ。顔だって、僕なんかより整っているし、給料だって悪くないはずだ。
 こんなことを実兄においそれと言えてしまうくらいの兄なのだ。
 なのに、である。
 ハルは家出をしてしまうのだ、兄を家出の理由にして。今頃、人のいい兄は猫の相手でもしながら、新築のマイホームで一人、ハルの帰りを待っているんだろう。それを思うと、ハルの脳天気さに腹が立つ。
「今度は何が理由なの?」
 僕は心構えをしながら理由を尋ねる。そこにはけしてちゃんとした理由は存在しない。今までもそうだったし、きっと今回もそうに違いないと思う。
 だから、驚かないのと、怒らない心構え。
「別に。特にナイけど。ちょっとヒロミさんの困った顔が見たくて」
 ハルは苦笑しながら「すごくかわいいのよ」と少しも悪びれる風もなく言った。ハルの理由なんてそんなものだとわかっている。兄もそれはわかっているのだろう。
 たぶん、ハルは苦手なだけなのだ。一日中、家の中で"主婦"でいることが。
 ハルは苦笑いしながら僕を見ていた。
「・・・怒らないの?」
 ハルはそう言いながら苦虫を噛み潰したような顔で笑っていた。ハルの苦笑はいつの間にか顔に張り付いたお面みたいに不自然になっていた。
 そして、ついにはそれが完全な無表情になって僕は驚いた。
「・・・どうしたの、ハル」
 いつもなら、ハルを家に帰そうと怒ったりなだめたりするのだが、なぜだろう、今日のハルはいつもの笑顔を引っ込めていた。いつものごまかし笑いを。
 めずらしくハルの笑顔以外の顔を見て、僕はとまどっていた。
 ・・・いや。かなり動揺していた。
「アオくん。怒らないで聞いてくれる?」
 ハルは恐る恐るといった感じでぽってりとしたそのくちびるをひらいた。
「赤ちゃん出来たの」
 僕はリアクションに困って、一瞬ハルから顔を逸らした。何を困る必要があるのだろう。ハルにとっては、いや、兄にとっては念願の子供が出来たというのに。
「ねぇ、どうしよう。アオくん何か言ってよ」
 困ったという表情。何に困っているというのだ。僕の頭はパニックになった。
 ハルが妊娠。ハルが・・・妊娠?
 僕の頭の中に、兄とこれから生まれるであろう子供と、少し母親らしく、ぽっちゃりしたハルとが笑っているのが見える。
「アオくん?聞いてるの」
 僕が自分の世界からなかなか戻って来れずにいると、ハルは心配そうに声をかける。
「驚いた?」
 ハルは笑う。ちょっと引きつった顔で。
 これは喜ばしい出来事だ。何を困窮する必要がある。ハルだってもっと嬉しそうな顔をすればいいのに、困った顔なんてするから、きっと僕もつられて困ってしまっているんだ。そうに違いない。それに、自分の甥だか姪が出来るんだ。すごいことじゃないか。お年玉をあげたり、おもちゃをいっぱい買ってやろう。たまには一緒に遊んでやってもいい。
 ・・・なんだか楽しくなってきた。
「アオくん?なんか変」
 そう言われて自分が、にやにやしたり、困った顔をしたり変な顔を繰り返していたことに気づく。
「いやぁ、だってさぁ」
 なんだかうまくしゃべれずに、僕は口をぱくぱく動かしていた。
「いいの?ハルが子供産んで」
 やっとの事で言葉にすると、失礼ねぇ。とハルはここでちょっと笑った。ふっと気がゆるんだように、ハルはコーヒーを飲んだ。
 僕には納得のいく答えが探せないでいた。
 兄とハルの間に子供が出来て、ハルが母親になるなんて。
 僕の推測だが、主婦が退屈で嫌だと思っている人間が、はたして子育てに興味を持ち続けられるだろうか。赤ちゃんを連れて家出なんてされたら大変だ。その上、世話を押しつけられたらどうしよう。犬や猫の子育ては何度か経験がある。それだって、バイト先がペットショップだから仕方ないと思って、我慢していたのに。人間の赤ちゃんなんて、想像もつかない。
 ハルがそう言いそうで僕は何とも言葉に詰まる。
 ごめんね、ちょっと見ててくれる?なんて言って、大きなバッグとともにやって来そうだから。
「でもねぇ、一つだけ問題があるんだ」
 僕をちらっと見て、それから意を決したように言った。
 ヒロミさんの子供じゃナイかも。
 それが理由だったのか。僕は目の前が真っ白になった。

                       

 

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