≪ その2  〜 最初の家出 〜  ≫

 

 

 

 

 ハルが初めて家出をしたのは、兄たち夫婦が新婚旅行から帰ってすぐのことだった。
 せっぱ詰まった顔で、大きなバッグとお土産のチョコレートを持って、ハルは僕の部屋にやってきた。
 僕は訳が分からなくてハルに半ば強引に理由を聞いた。僕は兄という男を信頼していたし、ハルが家出をしなければならないような理由に見当もつかないでいたからだ。それが事件の起こりだったのだけど。
 でも、ハルの様子を見ていると(どこか安心しているような笑顔なんかが)もしかしたら、何かあるのかもしれないと考えてしまう。
 僕の知らないところで、僕の知らない兄が・・・?なんて。
 とにかく、思いつく限りの理由を並べてみる。隠し子がいたとか、家庭内暴力があったとか(どれも兄のイメージからはかけ離れていたが)
 意を決してそれを言うと、ハルは驚いたように僕を見て、そしてすごく怒った。
「ヒロミさんはそんな人じゃないわよ。アオくんて、意外と人を見る目がないのね」
 見損なったわ。と、そう捨てゼリフを残して、ハルは帰っていった。僕はもう訳が分からなくなって、しばらく動けないでいた。
 いったい何なんだ!
 ハルが勢いよく開けた玄関のドアが、ゆっくり元の位置に戻ったとき、僕はその小さな音で謎の呪縛から解かれた。
 はじかれたように兄へ電話をかけた。
「なんだかわからないけど、あなたの奥さんは家出の家出をしました」
 すると兄は受話器の向こうで、いつものことだと言って軽く笑っていた。
「いつものことって、どういうことだよ」
 僕のちょっと苛立った声に兄は苦笑していた。
「それがハルのいいところだから」
「いいところだって?なんだかわかんない理由で家出することの、どこがいいところなんだよ」
「そんなに怒るなよ。いつもはすぐ帰ってくるんだ。近所を散歩して、気が済んだらすぐに。着替えもって青の所に行ったっていうんなら、二、三日泊めてやってよ」
 けちな男だなぁ。のんびり言う兄に、僕は諦め半分で言った。
「泊めるも何も、今出てったって言ったろ」
 なんだかわかんない理由で。
 僕の言葉で兄は一瞬、間を空けた。僕もなんだかそれにつき合って話すのをやめた。何か考えているんだろうと思ったからだ。
 少しして兄は間の抜けたような声を出して、驚いていった。
「じゃあ今、そこにいないんだね」
 兄は当たり前の答えを出し、ため息をついた。どこいったんだろう、と。
「・・・どこってわかんないの?」
「残念だけど」
「どうするんだよ」
 僕はちょっとだけ心配になっていた。大きな荷物を抱えて、ハルはどこに行ったのだろう。
 兄の話によれば、ハルは友人が少ないらしい。たまに会って食事したり、長電話をしたりという姿を、見たことがないと言うのだ。
「結婚式にも、ハルは友人を呼ばなかった。それは知ってるだろ?身内だけの小さな結婚式だったし。話もあまり聞かないよ。だから、春子はきっと青の所だと思って、心配してなかったんだ」
 お前達仲がいいだろ。と兄のなんだかぼんやりした声が、本当のことを隠しているように聞こえた。
 兄の態度や、言葉尻がやけに気になったけれど、今、直面している問題に気がついて、考えるのをやめた。
「探した方がいいんじゃない?」
 僕はそう言ってため息をつく。まったくうちの兄は変な女と結婚したものだ。
「どこを探すんだよ」
 兄は兄で困ったようにため息をつき、僕は話す言葉に詰まって、とにかく。とつぶやいた。
「とにかく・・・なに?」
 兄は少しだけ期待した声を出し、僕は少しだけ困った声で言った。
「探そうよ」
 やっぱりね。と受話器の向こうでつぶやきが聞こえた。


 受話器を置いて慌てて出かける用意をすると、ふいに猫の鳴き声が聞こえた。遠くで鳴いているような、小さくて、細い声。
 住んでいるアパートで誰かが隠れて猫を飼っているのだろうか。まるで隣の部屋の住人が飼っているかのように、身近で、どこか遠い鳴き声。ボロだボロだと思っていたが、壁の向こうの声が聞こえるなんて。
 玄関で靴を履きながら片手でドアを開けると、何かがぶつかって「ドンッ」と音を立てた。
 誰だよ、人の玄関の前に物を置くのは。こっちは急いでいるんだ!
 何度も何度もドアを開けたり閉めたりして、目の前の障害物をどかそうとする。渾身の力を込めてドアに体当たりすると、派手に何かがぶつかった音がして、小さな悲鳴が聞こえた。
「・・・ハル?」
 コンクリートの床に、まるで潰されたようにハルは倒れていた。その下から、猫の鳴き声が聞こえる。バッグの口は開いていて、洋服やら下着やらが散乱していた。バッグの中身を拾い集めながら、僕はため息をつかずにいられない。
 いい歳して、この人は何をしているのだろうか。
「ゴメン・・・行くとこなくて」
 鼻の頭の、猫にされたのであろうひっかき傷を撫でて、ハルは笑った。
「だって、飛び出したのはいいけど、行くところがなかったんだもん」
 すねたようにハルはいうと、無理矢理猫を抱いて撫でていた。猫はまるでハルのことを嫌っているように、出された手に爪を立てる。
「結婚してまだ一週間だろ?新婚旅行から帰ってきた次の日に、何でまた家出なんだ」
「同棲してたから、新婚気分でもないわね」
「・・・。ま、いいや今日は泊まっていくだろ」
 下手に理由を聞いて、また飛び出して行かれたらたまらない。僕は仕方無しにそういって、ハルの返事を待つ。
 ハルはハルで、僕の話を聞いているのだろうか、猫を必死の形相で捕まえている。爪を出されようが、牙をむかれようがまるでそれに対抗するように、一層厳しい表情をして猫と遊んでいる。
 いや、ケンカしているように見えた。
「この子も行くとこ無いみたいだったから、アオくんち連れて来ちゃった」
 ハルはあきらめて腕をゆるめると、猫は勢い良く飛び出してきた。僕の足下にじゃれつく猫を見て、ハルは笑った。
「やっぱりアオくんの所よね。わたしも、アオくんしかいないもん」
 笑顔が淋しそうだったので、嫌な考えが僕をとりついた。
 兄はやっぱり・・・?
「あ、また変なこと考えてたでしょう。ヒロミさんを悪くいうと怒るわよ」
 じゃぁ、何なんだよ。と、いいそうになって、僕ははっとする。
「別に、理由なんて無いわよ。お友達の家にお泊まりに来たっていいでしょう」
 ハルの無邪気な表情の中に、気になるものを見つけた気がした。けれど、それがなんなのか、僕にはわからなかった。
「一応、僕も男なんだから。今度から兄さんと来いよ」
 猫を抱き上げると、ハルは近寄って来て言った。
「可愛いわねぇ。ちっともなつかないけど」
 僕の言葉をあっさり聞き流して、ハルは猫を撫でる。猫はハルを嫌がって顔を背ける。ものすごくハルを嫌っているようだった。
 しばらくして、連絡を受けた兄がやって来た。ハルは兄を見ると、じんわり瞳に涙を浮かべた。
 兄はやって来て一番にハルに謝り、ハルは僕に謝った。僕は僕で、兄に頭を下げ、へんてこな三角形が出来た。
とりあえず、問題は解決したようだった。
 バッグの中に、無理矢理猫をつめて、ハルは帰っていった。ファスナーから顔をのぞかせて、猫は必死に僕に訴えていた。可哀想な気がしたが、二人は(いや、一人と一匹は)以外にいいコンビなんじゃないか、と思った。

 

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