≪ その3  〜 ハルの真意 〜  ≫

 

 

 

 

 

「怒らないの?アオくん」
 ハルは僕をのぞき込むと、不安そうな声をあげた。眉をぎゅっと寄せ、難しそうな顔をして、じっと僕を見つめる。
「・・・で。ハルは、僕にどうして欲しいの?」
 険しくなって行くハルの表情を見ながら、二人に流れる奇妙な間を埋めようと、僕はハルに言った。
 その言葉の強さに、自分自身驚いていた。
 僕は、怒っていた。でも・・・何に?
「仕方ないじゃない、本当のことなんだもん」
 顔から表情を消し、瞳に鋭い光を残したまま、まるで僕を睨むように見据えた。ハルの急激な態度や、表情の変化は今までにも何度も見慣れている。今までのはどれもへそを曲げた程度のものだった。けれど、今度ばかりは僕さえ知らないハルがそこにいた。
 全身からぴりぴりと張りつめた空気を漂わせ、口をきつく閉じ、愛らしい瞳からは鋭い視線を伸ばしている。握りしめられた手のひらは、小刻みに震えている。まるで自分の殻に閉じこもってしまったようなその様子に、僕はうろたえた。が、はっきりさせたい事実があった。
「兄さんじゃなければ、いったい、誰の子供なんだよ!」
 僕を振り仰いだハルは、その鋭い視線で僕を射抜くと、不適な笑みを作って僕につぶやいた。
「・・・アオくんの、子供かも知れない」
 僕はハルの視線や言葉に、金縛りになった。その笑顔はどんな笑顔よりも、魅惑的で美しく、なぜだかとても恐ろしかった。
 僕には、覚えはなかった。
 確かに、ハルは良く僕の家に泊まりに来た。そういう時はベッドをハルに譲り、僕は狭いキッチンで布団を敷いて寝た。一つ屋根の下、義姉ではあるが美しい女と二人でいて、正直言って、理性を保つのに苦心した夜もあった。ハルはいつもの調子で、無邪気に振る舞っていたけれど。
 しかし、一線を越えた夜は一度もなかった。
ハルが兄の妻で、僕がハルの義弟であるからこそ、踏みとどまったのだ。
「僕じゃ・・・ない」
 ハルの視線に射止められ、身動きできずに僕は言った。
 自分に言い聞かせるかのように。
「きっと、アオくんの子供だわ。男にはわからないでしょうけど」
 ハルの雰囲気に飲まれて、僕は不安をかき立てられる。ハルに気がなかったと言えば嘘になる。兄への小さな後ろめたさが、僕の心をさらに窮地に立たせる。
 本当に僕は踏みとどまったのだろうか?
 後ろめたさから忘れてしまった夜があったのではないだろうか?
 ハルの口振りは間違いのないように聞こえ、自信のない僕はひどく焦っていた。こういう時、男は女の言うことを信じるしかないのだろうか。実際、誰の子供かなんて、女にしかわからないのだろう。
「・・・もう、寝る」
 ハルはふいに視線を逸らして言った。その言葉に急激に現実の引き戻された僕は、へなへなと足下から崩れるように床に尻をついた。恐る恐るハルを見ると、瞳からは光が失われ、まるで亡霊のように気の抜けた様子で、部屋へ入っていく。
 あの時のハルの豹変ぶりに、僕は自分を失った。
 狂気が共になった様な不敵な笑顔で、僕の子供だと、つぶやいたハルを。

「春子は、躁鬱病かもしれない」
 真夜中、受話器の向こうで兄は言った。思いがけない言葉が耳に飛び込んできて、僕を驚かす。その一方で、今までもやもやしていたものが一度に晴れていく気がしていた。
 無邪気にはしゃいでいたかと思うと、次の瞬間、人が変わったかのように豹変したハルの態度を、僕は思いだしていた。
「まだはっきりとは言えない。医者にも見せていないし、本人にもはっきりとした自覚はないんだ。もしかしたら、もっとひどい病気かも知れない」
 兄の落ち着いた言葉が、僕の考えに確信を持たせていた。
 兄は以前からハルの異常な性格を知っていて、そのことを今まで僕に隠していたということ。
「どうして・・・今まで隠してたんだよ」
 僕は力無く言った。僕の心は今日一日でかき乱されて、言い返す力もない。
「私は春子と結婚したかった。以前から、春子の様子には気がついていた。けれど、私は春子と結婚したかった。彼女と家庭を築きたかった」
 受話器の向こうが、気になって仕方がなかった。兄の疲れたような声を聞いていると、僕は返す言葉を見つけられない。
「この事は、私と春子のご両親しか知らないことだ。それを条件に、僕は春子を妻に迎えた。青にはいずれ話すつもりだった。・・・いや、どうだったのかな。私は、どうしたかったんだろう」
 兄は乾いた声で笑い、消え入りそうな小さな声で、ぼんやりとつぶやいた。
「青に、取られたくなかったのかもな」
「兄さん・・・?」
「・・・なんでもない。子供のことは、心配しなくていい。私の子供だろう。ただ、春子にとっては、私の子供であってはいけないんだ」
「兄さん、もう少しわかりやすく言ってよ。今日は脳がくたくたで、考えられないんだから」
 僕は、小さくため息をついた。
 兄の話は、ハルのにこやかな笑顔からは想像もつかないことだった。
 ハルには、兄の前に結婚していた人がいた。その人との間に子供ができて、残念なことに死産だった。それがきっかけで離婚。ハルはひどくショックを受け、それからずっと心の中に不安を抱えて生きてきた。そんな時、兄が仕事の関係でハルの父親と知り合い、ハルと出会った。
 兄はハルを愛し、ハルは兄を愛することで心のバランスを保っていた。結婚を申し込んだときに、兄はハルの両親から条件を出されたという。
 二人の間に子供を作らないと言うこと。
 理由は、死産した過去がハルを苦しめること、ハルのその状態が子育てを妨げるであろうということ。兄もそれを承知で結婚したという。
「今思うと、あの頃は春子と一緒になりたい一心だったから、深く考えなかったのかもな。とにかく、一緒になりたかった。身内だけのひっそりとした結婚式だったけど、私も春子も、とても幸せだった。・・・そして、普通の夫婦が思うように私は子供が欲しくなってしまった」
「いいじゃないか。当たり前だよ、そう思うのは」
 兄の後悔に満ちた言葉を思って、僕はそういってしまった。けれど、僕の言葉は兄を苦しめただけだったのかも知れない。
 兄は何本目かの煙草に火を点け深く吸い込むと、まるでリズムを取るかのように、ゆっくりと煙を吐いた。
「欲しいという気持ちだけでは、どうにもならないんだ。現に妊娠したことで、春子は変調を来している。春子の家出癖は結婚してからのものだ。・・・私との結婚生活は、春子にとっては、制限の多いものだったから。わからなくもないよ」
「制限って・・・子供のこと?」
 受話器越しに兄のため息を聞きながら、僕は何度も考えていた。隣の部屋で眠るハルのことを。
「子供のこともあった。でも、一番は私にあるのかも知れない」
 そこで一息つくと、兄はまた辛そうに話し始める。
「春子の病気を隠そうとするあまり、私も春子の両親も、春子を極力家から出そうとしなかった。春子は子供を亡くしてから、人付き合いをさけるようになっていたし、誰も知らないところで、春子に何かあったらと思うととても心配だったから。でも、春子は青の所ではとても落ち着いていたし、だから私もお前の所なら安心だった。春子にはお前の所しか行くところはなかったんだ」
 最初に家出をしてきた日の、ハルの言葉を思い出していた。捨て猫を抱いて、行くところがないと言ったあの時を。
 僕の中で何かが繋がった。
 今日のハルのおかしな言動や、態度。子供のことに触れてからの豹変ぶり。ハルはハルで、必死だったのかも知れない。
「何となくわかった気がする。僕の子供だって言い張ったハルの気持ち。きっとハルはどんなことをしても、子供を産みたかったんだ」
 その時後ろで物音がし、薄暗い部屋の中でハルの姿が見えた。ハルはゆらりと僕へ歩き出し、張りつめた表情で僕から受話器を奪い取った。
「モシモシ・・・。ヒロミさん」
 兄の様子は僕には分からない。ハルの表情も、後ろ姿からでは推測できなかった。
 長い間ハルは受話器を握りしめ、時折小さく相づちを打っていた。その頼りない背中を、思わず抱きしめそうになった。
 僕は自分の気持ちに気がついて、はっとする。嘘みたいだ。こんな気持ちになるなんて。
 受話器を握りしめたまま、ハルは僕を振り返る。もの言いたげなハルの瞳を読むことが出来ず、受話器を受け取ると僕は兄に声を掛ける。
「やっぱり、ハルコを迎えにいくよ。心配だから」
 その時の僕は、まるで心を見透かされてるみたいだと思った。きっと兄は、今のハルの状態を心配し、迎えに来ると言ったのだろう。けれど僕には、その言葉が違った意味で聞こえていた。自分の気持ちに気づいたからかも知れない。
 ハルをここに置いておけない。とにかくそう思った。
「そう・・・。わかった」
 それだけ言うと、受話器を置いた。今の僕の気持ちはぐちゃぐちゃで、自分の本当の気持ちがどこに向かっているのかも見当がつかないでいた。
 ハルが病気だと知り、ハルのことをどこかで意識していたことを自覚し、兄の苦心やハルへの深い愛を知り、僕はたまらなく悲しくなった。
 僕はハル以上に、気持ちが不安定になっていた。
 ハルは僕の状態を肌で感じ、涙を浮かべた。
「ヒロミさんや、私の親たちはきっと反対する。子供を堕すのはいや。もう、死なせたくない。私は子供が欲しかった。ヒロミさんと私の子供が欲しいの!ヒロミさんと私が夫婦であるためにも、二人の子供が欲しかったの!」
 ハルはぼろぼろと涙をこぼして僕に言った。
 髪を振り乱し、涙が頬を伝って、絨毯にシミを作る。
「ハル・・・」
 ゆっくりと僕へ視線を戻し、ハルは声にならないほど小さくつぶやいた。
「例えアオくんの子供だって嘘をついてでも、産むつもりだった」
 そのハルの痛切な言葉が、僕を貫いた。

 

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