≪ その4 〜 青の真意 〜 ≫
長い夜だと思った。今までで経験した中で一番、長く感じた夜だった。
ハルはいつの間にか泣き疲れて眠ってしまったようだった。やっとの思いで気持ちを奮い起こし、ハルをベッドへ運んだ。
その時ほど、ハルに触れていて罪悪感があったことはなかった。これから迎えに来る兄を思うと、尚更だった。
ここまで来て自分の気持ちに気づくなんて、僕は本当にバカだ。兄たちが同棲していた時期も、結婚を報告に来たときも、僕は二人を祝福していた。幸せになってもらいたいと思っていたし、事実そうだったのだから。
ハルに、子供が出来たと聞いたときも、本当は素直に喜んであげたかった。
僕にはそれが、とても引っかかっている。あの時素直に喜んでいたら、ハルはあんなにも暴走しなかったんじゃないかって。僕だけでも、ハルに子供が出来たことを喜んでやれたら。
僕は生まれてからずっと、母を知らずに生きていた。僕を産んですぐに母は死んだ。
何が理由かは知らない。ハルが妊娠したと聞いたとき、僕はちらっとその事がかすった。かすったけれど、気付かない振りをした。母がいなかった事実を何度も振り返って、後悔したくなかったのかも知れない。
今までは、けして不幸などではなかった。そう思いたくて。
いつも母が恋しいという素振りを見せないようにしていた。いつも母代わりとして気にかけてくれた兄に、悪いと思ったからだ。
どんなときも、たった7つ年上の兄が、僕の母だった。
お弁当も、兄が作った。物心ついたときには、兄はエプロンをして台所に立っていた。
いつも仕事で忙しかった父のことは、良く覚えていない。僕にとって父も母も必要がなかったのかも知れない。代わりに、兄がいてくれたから。
いつだったか兄は、ワインを片手に自分たちが結婚すると報告しにやってきた。その時の酒の席で僕をからかったことがあった。
青は、「対象のいないマザコンだ」と。
母という存在への憧れが強すぎて、自分でも気づかないうちに、母親代わりの兄に依存していたというのだ。その時はそうだとは思わなかったけれど、よくよく考えてみると、思い当たる節がいくつかあった。僕は兄が結婚すると聞いたとき、ヤキモチを焼いたのを覚えている。間の抜けた話だけれど、その時僕は「兄に」じゃなくて、兄をさらっていく「ハルに」ヤキモチを焼いたのだ。
嘘みたいだけれど、あの時の僕はそういう気持ちでいて、ハルの事なんて、少しも頭になかったのだ。だから、なおさら混乱しているのかも知れない。
ハルが、誰かの母親になると聞いたときも、僕はとても困った。僕の中には「母親」という概念が無くなっていたのかも知れない。出産=母親というのが頭の中に浮かばなかった。
僕の母は、そうじゃなかったから。
一方、母になりたい一心のハルには、僕の気持ちなんて分からないだろうから、ハルの計画は、いずれ失敗を見ることになっていたのかも知れない。
そもそも、僕が父親って言うのは、無理がありすぎたと思うけど。
こうして、考えてみると、結局僕はどうしたかったんだろう。
僕には、コレだと確信を持って言えることはなかった。ハルへの気持ちに気がついて、あんなにも動揺していたのに、心の中を整理しようと、自分の気持ちを深く掘り下げてみると、分からなくなってしまうのだ。
兄とハルの仲を引き裂いて、僕だけのハルにしたい。そう思うほど、強い愛情ではないと思う。ハルが好きで、ハルがとても大切で、誰より幸せになってもらいたい。その為に僕が必要であるなら何でもするし、どんな無理だってこなす気持ちがある。
けれど僕は、兄からハルを奪えない。兄もまた、ハルと同じくらいに大切な人だから。
結論は簡単なものだった。
ハルを愛しているのなら、兄を大切に思うなら、全てを兄に託すこと。
けれど僕は、未だに気持ちの整理がつかないで、ただひたすら兄の到着を待っていた。
日付が変わった頃、兄は猫を連れてやって来た。ワイシャツにネクタイの姿で、猫の入ったバスケットを片手に。兄は、ハルを心配し着替えも出来ずに待っていたという。
「今日に限って、どこに出かけるって書き置きがなかったからね。心配したよ」
そういって兄は、緩んだネクタイをほどいた。
兄は、バスケットを僕に押しつけると、ハルのいる部屋へ向かう。バスケットの中から猫が顔を出す。いつか、ハルが連れてきたあの捨て猫だった。
「そいつね、ハルコのお気に入りなんだ。おまえの分身だっていって、可愛がってるよ」
青い首輪を窮屈そうにして、猫は僕に首をすり寄せる。
「青の分身で、ミドリって名前なんだ」
兄はハルの顔をのぞき込むと、切なそうに笑った。兄の笑顔が痛かった。
「ハルコは、青が一番で、二番がミドリだな」
ハルの髪に触れながら、兄はつぶやく。とても、淋しそうな声で。
「そんなことないよ」
僕はそれだけ言うと、兄に背を向けた。それ以上何も言えない。ハルが一番愛しているのは兄で、それを口に出して言うのが、とても辛く思えた。
「私はハルコを愛している。出会った頃も、今も。その気持ちは変わらない。ハルコも同じ気持ちだった。でも・・・想いが人を苦しめることもあるんだな」
兄の言葉は自虐的で、その言葉で傷ついたのは兄だけでなく、僕の気持ちも傷ついていた。
兄はそれをわかっている様に見えた。
けれど兄は、言葉が止まらない様だった。堰を切ってあふれ出す言葉が、いままで押し込めてきた兄の気持ちを押し流していった。
「青・・・。私は間違っていたのかな。春子には別の幸せがあったのだろうか?もっと春子に合った、春子の幸せが。結局、私は春子不幸にしてばかりだ」
ハルの手を取り、兄は泣き崩れた。くちびるを噛みしめ、静かに泣いた。
兄の涙を見るのは初めてで戸惑っていた。いつもはとても落ち着いていて、こんなにも取り乱した兄を、僕はどうすることもできなかった。
「ヒロミさん・・・」
ハルが毛布の端で、兄の涙を拭きながらぼんやりと兄の名をつぶやいた。
「ごめんなさい」
ハルはそれだけつぶやくと、兄の肩に頬を寄せて泣いた。
僕は台所に立って、三人分のコーヒーをいれながら、ひっそりと泣いた。兄を思って、ハルを思って、今の自分を思って、僕は柄にもなく泣いていた。
ハルは、兄が結婚したときの条件「二人の間に子供を持ってはいけない」という言葉をいつも意識して、心のどこかで恐れていたのかも知れない。同時に兄が、二人の間に子供が欲しい、と思っていることを感じ、大きく揺れていたのかも知れない。
それは、ハルの中で違った方向へと、形を変えて現れていた。
兄や、ハルの両親達は、ハルを大事に思うからこそ子供を持つべきではない、と感じていたに違いない。ハルは、誰よりも兄を思うからこそ、子供が欲しいと思っていた。例えどんな形であっても、兄の子供を産む。それがハルの願いだったのかも知れない。
僕はやっと、自分の気持ちを整理できたように思えた。