≪ その5 〜 ランチ・ボックス 〜 ≫
ハルは病院へ通っている。もちろん、産婦人科だ。
あれ以来、兄たち夫婦は以前にもまして幸せそうだった。兄がハルの両親の説得に成功した頃、ハルのお腹はずいぶんと目立つようになっていた。
「最近の産婦人科では、メンタルなケアもちゃんとしてくれるんだ」
待合室の横にある喫茶コーナーで、兄は新聞に目を通しながら言った。
ハルのお見舞いにやってきた僕は、一人で新聞を読んでいた兄に出会った。
四六時中側にいると、あれもこれもと心配しすぎて疲れてしまうのだと、兄は言った。
待ちに待った子供の誕生を前に、兄はとても幸せそうだった。
「すべてが、余計な心配だったな」
兄はそう言って、安心したように深いため息をついた。そうしながらも、本当はまだいろんな事を心配しているくせにと、僕は兄の心中を思うと笑ってしまう。
産婦人科の先生に、ハルの病気について相談したという。担当医は、心の病気については専門外だが、診察した結果大きな異常は見られないと、そう言ったそうだ。
「妊婦って言うのは、誰しも不安に襲われるものだそうだ。初産や、過去に出産で失敗している人は特に。春子のはそういったものと、そう違いはないらしい」
兄さんだって、不安とか心配で、今にも参りそうな顔をしてるくせに。
あぁ、幸せって、いいなぁ。
「何にせよ、ハルの悩みが解消されて良かったよ」
僕は心からそう思った。今は、兄たちの子供の誕生がとても待ち遠しい。
「青には色々迷惑かけたな」
そういって、兄は深々と頭を下げた。
「大げさだよ・・・」
そう言って僕は、兄の肩に触れる。それでも兄は、僕に頭を下げ続ける。
「兄さん、もういいよ」
両肩を掴んで兄を揺さぶると、兄は「すまない」と小さくつぶやいた。
「ハルコを幸せにするから」
兄の言葉で、僕は堪らなく。本当に、兄さんには敵わない。
兄が、何?と僕を見上げ、僕はちょっと笑って言った。
「兄さんには敵わない」
その言葉でほっとしたように兄は笑い、そんな兄を見て僕も笑った。
「アオくん、久しぶり。全然顔見せに来ないんだもん。てっきり嫌われたのかと思った」
ハルはベッドの上で編み物をしていた。ちょこちょことせわしなく手を動かしながら、満面の笑みで僕を迎えた。
先日、妊娠中毒症がひどく入院した人とは思えないくらい、元気な笑顔だった。
「それ、赤ちゃんの?」
ハルの綺麗な指の下で、真っ白な毛糸が小さな靴下の形を作りかけていた。うなずきながら、ハルの手は休むことがない。傍らに置かれている籐籠の中には、すでに何組かの小さな靴下が出来ていた。全て同じ、真っ白な毛糸で。
「こんなに何足も靴下ばかり?他のも作ったら?」
そう言うと、ハルは僕のほうをまじまじと見て「何にも分かってないのね」と、ため息混じりにつぶやいた。
「これから冬が来るでしょう?産まれてくる赤ちゃんはきっと、とても寒がりだと思うの。あのヒロミさんの子供だから、きっとね。直接肌につけるものは、毎日洗濯しないといけないし、替えはたくさんあった方がいいと思うの」
ハルの、ハルらしい考え方だった。そこにはやはり、兄を伺える何かがあって、僕は思わず笑いがこみ上げてくる。それを見て、ハルはふくれっ面だ。
「笑った!バカにしないでよね。これでも秋にはお母さんなのよ」
大きくなったお腹をさすって、ハルは満足そうに微笑む。それを見て僕はとても幸せだった。
ハルは不意に耳を澄ませるように遠い目をした。かと思うと、僕の顔を両手で挟むと、自分の膨らんだお腹に押し当てた。
「ね、聞こえるでしょう?」
温かい感触の奥から、こもった小さな音が聞こえる。命の鼓動。勢いよく、蹴り上げる音。確かに、ハルの中でもう一つの命が育まれていた。
「アオくんも、こうだったのよね。お母さんのお腹の中で、大事に、大事に可愛がられて、アオくんは生きてたんだよね。お母さんは、早く生まれてこないかなって、心待ちにしながらせっせと靴下を編んで」
ハルの優しい声が、振動して聞こえてくる。ハルのお腹の温かさに、僕は切ない思いを感じていた。そう、僕も母のお腹で生きていた。
「でも、アオくんには悪いけど、子供を思う気持ちなら、アオくんのお母さんに負けない。一番は私だと思うわ。靴下の出来も、私が一番よね」
妙に確信を込めて、ハルは言う。
「僕の母さんは、靴下なんて編んでなかったと思うよ。僕が生まれたのは真夏だったからね」
そういって、起きあがろうとすると、ものすごい力で引き戻された。その力でハルのお腹に顔をぶつけた。ばうんと跳ね返るような感触。
「な、何するんだよ。お腹の赤ちゃんに触るだろ、そんな力一杯・・・」
「母は強し」
ハルはお構いなしに僕に言った。
それ、使い方違う気がする。
僕は無理な体勢でハルのお腹に顔を押し当てている。僕の頭を抱きかかえるようにして、ハルは僕の髪を撫でた。
「不安なの。今度は無事に生まれてくれるか、それだけがとても心配。いくつもいくつも産まれてくる赤ちゃんのために靴下を編んだけど、それでもやっぱり不安なの。でもね、アオくん。私はこの子をこの腕に抱いてやりたいの。だから頑張る。頑張れると思うんだ」
その言葉で、僕はハルの気持ちを知った。ハルの気持ちは不安でいっぱいなのだ。その気持ちに負けないように、ひたすら靴下を編み続けるハルを思って、胸がいっぱいになる。
「ハルは、その手で赤ちゃんを抱けるよ。元気な赤ちゃんを産むよ。大丈夫、今だってこんなに元気にお腹を蹴ってるよ」
「・・・最近、あなたのお母さんのことを考える。アオくんを腕に抱けずに死んでしまった、あなたのお母さんのことを。今はとてもよく分かるんだ。自分の命を犠牲にしても、アオくんをこの世に誕生させたかったお母さんの気持ち。出来ることなら、その腕にアオくんを抱いて欲しかった。でもね、私この子の顔を見ないと死ねないと思うわ。きっと、絶対に」
僕は、いつになく安らかな気持ちで、ハルに抱かれている。
「だからね、今は私の腕に抱かれていなさい。私も「母親」なんだから、同じでしょう?」
「ハル・・・?」
ハルが言いたいことを考えた。もしかして、僕に気を使ってくれているのだろうか。
「そろそろ、ちゃんとお母さんのこと話せても良い頃よ」
もう、大人なんだから。
ハルの言葉が重い。僕を思ってかけてくれた言葉だから、ハルの思いが詰まっていて、僕の心にずしっと、響いた。ハルが僕にうち明けたとき、ハルは全部知っていたんじゃないか。僕の母に愛する思いを知っていて、それでもうち明けずにいられなかった自分を後悔して、そうして今、僕を抱いてくれている。うれしくて、涙が出そうだった。
これが、母のぬくもりなんだろうか。僕の唯一知っている母と言ったら、赤ちゃんのときに感じただろう、ぬくもりに違いない。
暖かで、優しいぬくもり。
「もうちょっと、いいかな」
僕はその記憶をたどるように、そのぬくもりに浸っていた。
遠い、遠い記憶の隅に、確かこんなぬくもりがあったんだ。
「来年の春には、お花見に行きましょうね。ヒロミさんと、赤ちゃんと、アオくんと、私。たくさんたくさん、お弁当を作って、家族で出かけましょうね。おいしいお弁当を作るわ。ヒロミさんの方がお料理上手だけど、母の味にはきっとかなわないわね。だから、嫌な顔しないで、お弁当残さず食べてね」
小さい頃の記憶が蘇る。
学生服にエプロン姿の兄が、僕にお弁当を持たせた時に必ず言ったセリフ。
『空の弁当箱だけ持って帰ってこいよ。自信作なんだからな』
見た目は悪かったけど、どこのお母さんのお弁当より美味しかったのを覚えている。おかずの取り替えっこをしては、兄の味に満足していた自分。その反面、母親の作るかわいらしいお弁当が羨ましかったのを覚えている。
タコのウインナーや、ウサギのリンゴが。
でも僕には、それを兄にリクエストする事が出来なかった。料理の本と首っ引きで、お弁当を作る姿を見ていたから。
「タコとウサギも入れて」
ハルは、その言葉にちょっと驚いた様子だったけれど、すぐに僕の言いたいことを読んでか、困ったような顔をすると、曖昧に返事をした。
「・・・なんにせよ、母の味に違いはないわよ。これぞお袋の味ってのを作るから、期待してなさいよ」
ハルが、兄の奥さんで良かったと思った。兄の目に狂いはなかったし、僕の目にも間違いはなかったというわけだ。ハルの両親の危惧も、ほとんど余計な心配で終わったし、僕らの未来は明るい、と思った。
その年の冬、ハルは元気な双子の男の子を出産。
一人だと思っていた僕らは大慌て。ベッドやら、シートやら揃えていたものは全て一つだったから。慌てて買い物に走る兄がとても幸せそうだった。
双子を両腕に抱いて、ハルは得意そうに言った。
「靴下は多めに編んでおいてよかったでしょう」
翌年の春。僕らは約束通り、花見に訪れた。
二つのベビーカーを引く兄の隣で、母親らしくふっくらとしたハル。両手に大きな荷物と猫の入ったバスケットを持って、僕は後をついていく。
お弁当箱には、少しいびつなタコとウサギが入っている。これが母の味だと噛みしめて食べた。
来年も、その次も、お弁当を持って花見に来よう。その頃にはきっと、おいしいタコとウサギにあえるかもしれない。
...fin