『 このままでいよう 』

 




 その瞬間から、お昼休みが憂鬱になった。
 数学の授業より、進路相談の時間より、なにより憂鬱だった。人づてに渡ってきた、小さなメモ用紙が原因でこんなに憂鬱になるとは思わなかった。
 お昼休み、タケハラ君に会う。
 そのメモが、どういう繋がりで私の元に届いたのかは、わからない。わかることは差出人がタケハラ君で、受け取ったのは私だと言うこと。
 『お昼休みに購買前の階段で』とだけ書かれた几帳面な文字は、何度読み返しても意図が読みとれなかった。
 タケハラ君から。
 それだけで以前の私なら、このメモ用紙がどれだけ素敵に見えていただろう。
 タケハラ君をちらっと廊下見かけた時も、ケンタからその話を聞いたときも。
 ・・・・ケンタ。どうしてるんだろう?
 ケンタも、私とすれ違ったりしたら嬉しかったのだろうか?
 私と話をしたときは?やっぱり嬉しかった?
 私がタケハラ君のことを話したときは?・・・やっぱり辛かった?
 どれだけたくさん傷つけて来たんだろう。
 二人の関係を壊してしまったような気がした。
 このままで良いわけがない。それだけはわかってる。
 今は、ケンタにもタケハラ君にも。会わせる顔がないよ・・・。

 チャイムが無情にもお昼休みを告げた。
 お昼の放送を聞きながら、机から離れられない。お昼休みに入ってもう随分立つけれど、どうしても立ち上がれない。
 椅子から立ち上がったら、会いに行かなくちゃいけない。
 結局、お昼ご飯を買いに購買には行かなくちゃいけないってわかってる。その辺も全部計算尽くで、タケハラ君はメモよこしたのだろう。
 頭がいいって、ちょっとずるい。
 お尻に根っこが生えたら、行かなくて済むのかな?
 ふと、そんなばからしいことを思ってみる。
「美咲!お迎えが来てるよ」
 クラスメイトの声に顔を上げると、教室のドアからタケハラ君の顔が見えた。
 クラス中が、突然現れた学校のアイドルに騒然となる。
 真っ青になる私をしり目に、愉快なクラスメイト達はわざわざ私をタケハラ君の連行してくれる。みんなどこかからかい半分で、ぐいぐいと私の背中を押している。うらめしそうに睨んでいる私に気づきもしない。
 そのうちに、身体は教室の外に押し出されて、怖い顔をしたタケハラ君の前に到着した。
「メモ、届きましたよね?」
 タケハラ君の静かな声が響く。抑揚を抑えたような声が、すごく恐い。
 思わず、黙ってこっくりと頷く。
「メモの意味、判りますよね?」
 こっくり。
「今、お昼休み。約束の時間ですよね?」
 こっくり。
 はぁ。とタケハラ君がため息をつく。ちらっと様子を伺えば、端正な横顔が思案深げに眉を寄せている。
 それを見ながら、私もため息をつく。
 こんな時なのに見とれちゃうのって・・・不謹慎だ。
「湖東先輩。約束は守ってください」
 ごめんなさい。とつぶやきながら、なんだかおかしい。という気持ちでいっぱいになる。
「私、タケハラ君と約束してないもの。一方的にメモを押しつけられただけだよ。それに約束は購買の所の階段だったじゃない。迎えに来るなんて聞いてないよ」
 約束破りはどっちよ。
 ふてくされて言うと、タケハラ君は涼しげな顔で言う。
「迎えに来なければ、きっと来てくれなかったでしょう?無駄に時間を過ごすくらいなら、いつだって迎えに来ますよ」
 タケハラ君ってこんなに意地悪な人だった?
 急にタケハラ君が別の人みたいに見える。
「意地悪なのね、タケハラ君。私が鈍感のバカだからなの?」
 そう言いながら長い廊下を歩き出す。自分で言ってて落ち込んできちゃう。
「いいえ、先輩。これが俺ですよ」
 すっと私の前に立つと、そう言って意地悪そうに笑った。
「・・・わかった。言いたいことはわかったわ。タケハラ君に言われると傷つくの」
 タケハラ君は、判ったというように小さく頷くと、すたすたと長い足で歩いていく。
 その後を追いかけながら、複雑な気持ちで一杯だった。
 タケハラ君はこう言いたいのだと思う。
 結局、あなたは何を見て俺を好きになったんですか?って。
 私にも、何だか判らなくなってしまった。あんなに好きだったのに。
 近づけば近づくほど、知らないタケハラ君を見つける。表面ばかりを見ていて、本当は何一つタケハラ君のことを知らなかったんだと思うと、それなのにケンタまで傷付けたのだと思うと、今までの自分がどうしようもなく情けなくなってくる。
 私の前を歩いているタケハラ君の背中は、すごく大きいと思った。
 そう見えるだけなのかもしれない。
 知らなかっただけなのかもしれない。
「先輩。お昼どうしますか?」
 呼ばれて顔を上げると、階段の下でタケハラ君が待っていた。
 気づけば二人の間はすっかり開いていて、随分前からタケハラ君はそこで待っていた様だった。
 お昼かぁ・・・そう言えばお腹が空いているような気がする。
「食事取りながら話そうかと思ってたんです。俺、今しか時間がとれなくて」
 忙しいんですけど。と言いながら、タケハラ君は答えを求めるようにこっちを見ている。
 ・・・放課後は部活だし、他の時間はクラス委員で忙しいんだろうなぁ。
 そんな風に考えていたら、ちょっと怒ったような声が聞こえた。
「どうしますか?」
「ごめん、他のこと考えてた・・・」
 つぶやいて階段を駆け下りると、タケハラ君はちょっと迷惑そうな顔をした。
 
 ・・・それどころじゃなかった。頭が一杯で。 
 隣でパンを食べているタケハラ君を見ながら、心の中で言い訳を言う。
 購買前の階段が、こんなに息苦しい場所だなんて思わなかった。
 前にタケハラ君と話をしたときも、ケンタと話したときも、そんな風には感じなかったのに、今はすごく息苦しく感じる。
 タケハラ君が人混みの中に飛び込んで買ってきてくれたパンは、私のヒザの上で手を付けられずに置いてある。買ってくれた暖かいミルクティーの缶も冷めてしまった。
 優しいところも、意地悪なところも全部好きだなって思ったら、罪悪感でお腹が一杯になってしまった。
「恋をすればわかるって、そう言ってましたよね」
 しばらく黙っていたタケハラ君が、食べ終わったパンの袋をきゅっと結びながらそう言った。
 一瞬、何のことを言われているのかわからなくて、まじまじとタケハラ君の目を見つめてしまった。
 眼鏡越しに見えるタケハラ君の瞳は、まっすぐで綺麗だった。
「聞いてますか?」
 ちょっとあきれたようにタケハラ君は言う。
 慌てて頷きながら、目を逸らす。
「恋をしたあなたなら、健太の気持ちもわかるでしょう?」
 タケハラ君のまっすぐな言葉が、ずきんと突き刺さる。
 ・・・タケハラ君の用件はこれなんだ。
「別に、責めているつもりはないんです」
 そういって、タケハラ君は私をのぞき込む。
 私は、タケハラ君の視線から逃げる。逸らして逃げて・・・。でも、タケハラ君は厳しい表情で許してはくれない。
「健太のこと、きちんと考えてあげてください。俺がこんな事を言う立場じゃないんでしょうけど、健太を放っておけなくて」
 だから・・・。とタケハラ君は言った。
 だから・・・。その後に続く言葉は、今のは私には判りすぎている。それを言わないのは、タケハラ君の優しさなのか、厳しさなのか判らない。
「わかってる」
 そう言いながら、その反面、私はどうしたらいいのだろうと思っていた。
「それなりの答えを出してあげないと、あいつだって苦しいはずですから」
 タケハラ君の声が、頭の中でこだまする。
「傷つけたくない・・・から。どうしたらいいのかわからない」
 これ以上、今までを壊したくない。
 そうつぶやくと、タケハラ君は大きなため息をついた。
「だからって、このままで良いわけじゃないでしょう?嘘をついて傷つくのは健太も先輩も一緒だ。傷つけたくないなんて、優しさじゃないですよ」
 厳しい声が隣から聞こえてきて、何だか判らないけれどすごく辛くなった。
 好きな人に・・・。
 好きな人に怒られて、悲しくないわけがない。
 自分の気持ちがはっきりして、私は余計に辛くなる。
 ・・・やっぱり、タケハラ君が好きだ。
「タケハラ君は意地悪だよ。ケンタを気遣うのに、私のこと少しも気遣ってくれない」
 私が今、どんな気持ちで隣にいるかなんて、きっと判らないんだ。
 そう言うと、ガマンしていたものがどっと溢れてくる。
 好きなのに。好きなのに。って何度も繰り返しながら、でもそれ以上何も言えなかった。それ以上、何も言葉にならなかった。
 ガマンしていた沢山の気持ちは、言葉にならないで涙になっていく。
 涙がぼろぼろ落ちて、スカートにシミを作るのを見つめながら、私は言いたい言葉を探していた。
「先輩・・・」
 タケハラ君がハンカチを差し出す。
 目の前に突き出されたタケハラ君らしいシックなハンカチを、受け取ることも出来ずに見つめながら泣いた。
「先輩。俺にはわからないんです。どうしてそんなに一生懸命人を好きになれるのか。健太の気持ちも、先輩の気持ちも。それなのに、先輩の気持ち少しもわからないで断る俺を、それでも好きになれるんですか?」
 無理矢理ハンカチを押しつけると、タケハラ君はそう言った。
 困っている雰囲気がありありと伝わってきて、思わず涙が止まった。
「理屈っぽいんだね。タケハラ君」
 理屈じゃないんだよ。
 そう言いながら、押しつけられたハンカチを借りた。タケハラ君の匂いのするハンカチが、私の涙を吸い取っていくのを見て、少し幸せな気持ちになった。
「理屈じゃないんだよ。だからケンタの気持ちもわかる。わかるからこそ、傷つけたくないのよ。傷つかなくちゃきっとわからないのよ」
 タケハラ君には、きっとわからない。
 隣でタケハラ君が言いよどんでいる。何度も何かを言おうとして、言葉にならずに失敗していた。
 お昼休みの終わりを告げるチャイムが、タケハラ君の言いたいことを無理矢理押し込めてしまった。何かを言いたげな表情だけ残して、タケハラ君は帰っていった。

 放課後、借りっぱなしだった進学資料を返しに資料室へ向かう。考え事をしながら渡り廊下まで来ると、グランドから聞き慣れた掛け声が耳に届く。
 それがサッカー部だと気づくと、腕に山積みの冊子を抱えたまま、ぼんやりと立ち止まってそれを見てしまう。ずっと遠いグランドを、誰だかはっきりとは判らない距離でも、自然と誰かを捜して視線が彷徨う。
「ミサキさん」
 急に声を掛けられて、抱えていた冊子を落としそうになった。
「おっと」
 声の主が、崩れそうな冊子の山を丸ごと引き受けてくれなかったら、きっとバラバラに落としていたに違いない。重ねに重ね、やっとここまで運んできたので内心ひやっとした。
「無茶するなぁ。少しずつ運んでくればいいのに」
 ありがとう。とつぶやきながら、思わず下を向いた。
 その声の主がわかったから。
 視界に飛び込んでくるドロだらけのスパイクに、一瞬でもタケハラ君が浮かぶ。
 そんな自分と、先程のあからさますぎる態度に罪悪感を感じながら、恐る恐る顔を上げる。
「ど、どうしたの?」
 こんなところで。
 うわずった声でそう言いながら、どうしたの?は私の方だと思った。
 ケンタも不思議そうな顔で私を見ていた。
「部活。ランニングしてるところだったんだ。苦労してるミサキさんが見えたから、抜けてきた」
 そっと視線をグランドに彷徨わせている私に、隣でケンタが笑いながら言った。
 驚いて声にならない。
 なんてストレートにものを言うんだろう。どきりとする。ケンタって前からそうだった?
「・・・竹原を探してるの?あいつならまだ来てないよ。委員の仕事が残ってるんだって。教室に行けば会えるんじゃないかな?」
 平然とタケハラ君の話題を持ち出すケンタが、不思議で仕方がない。
 隣を見上げると、ケンタは笑っている。
 苦労して運んできた山積みの冊子を、いとも簡単に抱えているケンタ。
 そのケンタを見上げる角度に、驚く。
 こんなにケンタって大きかった?
 気づかなかった部分が沢山ありすぎて、ケンタが眩しく見えた。
「ね、ミサキさん。お昼休み竹原に会えた?」
 その一言で、はっとする。
 あの突然のタケハラ君の呼び出しは、ケンタが仕組んだことだったの?
「あ・・・。ケンタが?」
 ケンタは頷く。
「応援するって約束したでしょう?」
 にっこりと笑って、ケンタは言う。今までぶっきらぼうだった態度が、嘘みたいに優しい。
 ・・・でも、優しいから余計に痛々しく感じてしまう。
「あの、あのねケンタ・・・」
 口を開きかけた私を、ケンタが止めた。
「言わないで」
「・・・え?」
「いいよ。言わないで」
 それっきり、ケンタは何も言わない。
「これ、資料室?そっか、ミサキさん受験生か。どこ受けるの?」
 そう言いながら、ケンタは資料室へ歩き出す。
 ユニフォームの後ろ姿を追いかけながら、もどかしい気持ちで一杯になる。きちんと言わなくちゃいけないと思う反面、どういえばいいのかまだわからないでいる。
 追いかけながら、やけに角張った肩や筋肉のついたふくらはぎが目に入る。
 ケンタも一人の男なんだと気づくのに、時間がかかりすぎたのかも知れない。
 きちんとしなくちゃいけない。それだけは胸の中でしっかりしていた。
 走り寄って引き留めると、ケンタは驚いたように振り返る。
 じっとケンタに見つめられ、揺らぎそうになる気持ちを立て直そうと、無理矢理口を開いた。
「ケンタ・・・聞いて」
 振り絞ってそう言うと、ケンタははっきりと首を横に振った。
 だって。と言いかけると、それに被せるように口を開いてケンタは止めた。
「自分の気持ちに気がついたら、スッキリしたんだ。まだどうしたいとか、そういうのわかんないんだ。諦めた方がいいんだろうけど、先が見えるまで、このまま好きにさせておいてよ」
 このままでいさせて。
 そういって笑ってみせるケンタが、すごく大きな人に見えた。
「だから、今は何にも言わないで」
 そうきっぱりと言って、ケンタは資料室に歩いていく。
 そのどこかさっぱりとした言い方が、私の心を軽くした。
 私も、そうしようと思った。やっぱりタケハラ君が好きだ。
 その気持ちがずっと心をもたげていたけれど、ケンタみたいに『好き』という気持ちを大切にしていたら、それで十分なんじゃないかと思えてきた。
 まだ考え事をしている私に、ケンタは笑って言った。
「言わないでね」
 ねぇ、それって・・・?
 ケンタを追いかけながら、ぼんやりと思った。
 どっかで聞いたことがあるんだけど?
 くすくすと堪えるようなケンタの笑い声を聞くと、とたんに悔しくなる。
「教えてあげようか?」
 堪えきれず大きな笑い声をあげながら、ケンタは言う。
 ・・・待って、思い出せそう。
 もったい付けるように、ケンタは口を開く。 
 ・・・あ!
「言わないで!」
 思い出したから!
 
 大きな笑い声を廊下一杯に響かせながら、ケンタは歩いていく。
 その後ろを追いかけながら、このままでも良いんだと思った。
 幼なじみのケンタと。大好きなタケハラ君と。それで良いんだと思った。
 今はまだ、この気持ちを失いたくない。
 今はまだ、誰のことも失いたくない。
 だからきっと、このままでも良い。
 答えは、急がなくてもきっと出る。
 そう信じて。



あとがき

 

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