「 満月の夜に 」

 



 月には魔力がひそんでいるという。
 だからこんな事があってもきっと不思議じゃない。
 いつもより月が綺麗に見えた日は、きっと誰もがその魔法に掛かっている。どんな不思議も不思議に見えない、素敵な魔法。


「こんばんは。ワタナベさん」
 近代的とは言い難いアパートの(それでも名前だけは立派に横文字だったりする)二階のベランダに出ていた僕は、急に声をかけられて思わず手すりから滑り落ちそうになった。
 こんな夜中に、一体誰が?
 焦って手すりにしがみつきながら、辺りを見回してみても声の主は見付からない。見つからないどころか、そんな声が本当に聞こえたのかどうか、疑ってしまうくらいに辺りは静かだった。
 一瞬、背筋に冷たいモノが走る。
 夏も間近の真夜中、暖かい風が吹き抜けていく。
 こんな夜、こんな時・・・。思わず浮かんだ想像を否定したくなる。
「こんばんは。ワタナベさん」
 良い月の夜ですね。
 聞き間違えようが無いくらいにハッキリと、そう、実にハッキリとその声は僕に話しかけてくる。嘘みたいにハッキリと、そして奇妙にたどたどしく僕の名前を呼んだ。ワタナベさん。と、どこか不思議な発音で。
 下の階も、両隣の部屋も、部屋の中も、僕は必死になって探した。幽霊じゃない、声の主を。結局探し出せたものは何もなくて、僕は固まる。
 あとは上・・・?まさか屋根裏?
「おい。誰かいるのか?」
 いたら嫌だけど、いなければいないで怖い。
 不意に天井を見上げると、こそこそっと軽い足音がいくつも聞こえる。小さな小さな足音がこそこそっと走り抜ける音がした。
「ワタナベさん、こっち。こっちですよ」
 足音が消えた方へゆっくりと近づいてみる。
 ・・・ただの天井。 
 でも確かに、この天井の向こうからその声は確かに僕の名前を呼んだ。しかも小さな無数の足音も。『良いい月の夜ですね』と、そう問いかけてきた。思わず答えてしまいそうになったくらい、気のいい声だった。
 ・・・月。
 見えるところにいるのか?
 僕も、月も、見えるところにその人物(人と特定できるかどうかは判らない)がいて、声をかけてきた。まさかと思いつつ、僕はベランダを伝って屋根の上に登った。
 そう、まさかと思いつつも妙に確信があった。声の主はこの上にいると。
 ぎしぎしと軋むベランダの手すりに足をかけ、よろめきながら屋根に手をかける。懸垂の要領で顔を出すと、振るえる腕が根を上げて落ちそうになる。すんでの所でベランダに足を着く。
 くすくすと、小さな小さな数人の笑い声が、間抜けな僕を笑っていた。
 誰だか判らない失礼な奴達が、僕を呼んでおいて笑っている。・・・失礼な。
 意地でも登って、正体を突き止めてやる。靴下を脱ぎ捨て、手のひらをTシャツの裾で拭う。今まで見せたことがないくらいの渾身の懸垂が、僕の身体を屋根の上に引き上げた。
 真っ黒な闇が、うっすらと月明かりに照らされてぼんやりと白んでいる。波状の瓦の上にどうにか腰を落ち着けると、足を踏ん張って身体を固定する。まさか、屋根の上に登ることになるとは、思わなかった。登れるとも、登ろうとも思わない。
 さてと、声の主はどいつだ?
 見渡す限り、整然と並んだ屋根瓦しか見えなかった。
「ようこそ、ワタナベさん」
 驚いてかしゃんと瓦の音を立てると、またくすくすと笑い声が聞こえた。その後すぐ、こら。とか、いけません。とかたしなめる厳しい声も聞こえた。
「ワタナベさん、こっちです」
 ことことっと瓦の上を何かが歩いてくる音がし、次いで足下で何かが動いているのに気がついた。目を凝らしてみると、足下に小さなネズミが笑っていた。ふさふさと風に揺れるくすんだ銀色の体毛。薄いピンクの手のひら、ひくひくと風を香っている鼻。間違いなくネズミだった。小綺麗なネズミ。
「・・・ね。ねずみぃ?」
 はい。ネズミです。
 彼はそういって、僕に笑いかけた。
 目眩がした。
 屋根から落ちてしまうんじゃないか。それくらい激しい目眩が。

 ネズミがしゃべるわけが無いじゃないか。愛想良く笑顔まで。それに、なんで『笑いかけている』なんて思うんだ。あんなちっこい顔のどこに笑顔があると僕は思うんだろうか。
 第一、ねずみが何でお月見なんだ。
 僕の隣で、一列に整列しているネズミの家族を見つめながら思った。お行儀良く一列に整列して、一様に同じポーズで月を見上げる。ちょっと首を傾げ、両手をきゅっと握って、月に照らされたきらきらの瞳で。
 目に映る光景が、僕に嘘だと何度もつぶやかせた。嘘だと思いたい。
 そう思っていた。ここで、同じように月を見上げるまでは。
「どうです。いい月でしょう?」
 父ネズミはヒゲを揺らして僕に言った。
「そうですね」
 そう答えながら、僕は注意深く屋根の上に寝そべった。
「ここにいるとね、ほんの少し月に近づいたような気がするでしょう?」
 ほんの少しだけ、綺麗にも見えませんか?
 僕の耳元にやってきて、父ネズミはそう語りかける。
 そうですね。
 僕はそう答えている。
 父ネズミの講釈を耳にしながら、僕は「そうですね」と何度も答える。彼の語る月の美しさも、その表現も僕にはとても新鮮に感じていた。彼の声もまた、僕の耳にはとても居心地がいい。この屋根の瓦より、ずっと。
 でこぼこの瓦を背中に感じながら、僕は月を見つめている。ミルクセーキのようにやわらかい乳白色の月を。
 どうやら、このアパートはかなり年代物のようだ。ネズミも住んでいたし。屋根のあちこちで、瓦の割れ目から子ネズミが顔だしている。雨漏りはこの穴のせいかと思ったが、修理する気にもなれない。ひょこひょこと穴の中を忙しなく行ったり来たりする子ネズミ達を見ていると、雨漏りのひとつくらい、何でもないと思う。
「これがカミサンです。こっちが子ネズミ達」
 父ネズミが紹介してくれた家族は、総勢12人。10人の子沢山に恵まれた母ネズミは母の貫禄たっぷりに、僕に言った。「たまにはきちんとした食事をとりなさい」と。
 これには僕も、思わず居住まいを正してはい、と素直に頷いた。
「あと、朝はちゃんと起きなさい」
 はい。ごめんなさい。
 謝罪の言葉を口にして、僕は吹き出しそうになった。体長たった10pもないネズミに、僕は説教をされている。
 どこの母も口うるさくて、遠慮がない。
 まるで自分の母に言われて様な気がして、どこかしんみりしてしまった。そういえば、昔、母も同じ様なことを言ってたっけ。
 
 はしゃぎ回る子ネズミ達が、僕の身体の上を横切る。とたとたとおぼつかない足取りが、その足取りににつかない早さで駆け回る。それを追いかけるように母ネズミの声。
「ねぇ、ねぇ。ワタナベさん」
 今、どんな気分なの?
 ひょっこり僕の額に飛び乗った子ネズミの一人が、おかしそうに聞いた。
「何がおかしいの?」
 小さな爪が僕の額にあたる。子ネズミを額から降ろすと、はしゃいだ声でもう一度言う。
「ねぇ、どんな気分なの?」
 ツキノマホウにかかっている時って。
「月の、魔法?」
 さぁっと温度の下がった風が屋根の上を吹き抜けていった。風に揺れる髪をかき上げると、隣で父ネズミも風で乱れた体毛をなでつけていた。
 風が出てきた。この時期でも、真夜中の風は涼しい。その風が、薄い雲を運んでくると、母ネズミは厳しい声で子ネズミ達をしかった。
「子供達、時間ですよ。さぁ、早くお家に入りなさい」
「ねぇ、解けちゃう、解けちゃうんだよ」
 ワタナベさん。
 子ネズミが口々に言う。
 ねぇ、マホウが解けちゃうんだよ。
 薄暗くなっていく月明かりが、彼らの瞳からきらきらを奪った。
 とたんに、彼らの言葉がだんだん聞こえなくなっていくのに気がついた。子ネズミ達は、その小さな口を一生懸命動かしている。またね。とか月がね。とか、とにかく一生懸命僕に何かを伝えようとしていた。
「早く、早くお家に入りなさい」
 時間よ。
 母ネズミの大きな声を最後に、子ネズミ達の声は聞こえなくなってしまった。屋根の中央、僕の部屋の真上にネズミ達の家はあった。母ネズミは瓦をほんの少し持ち上げて、そこに子ネズミ達の小さな丸いお尻がつぎつぎに消えていくのを、僕はぼんやり眺めていた。
「月の魔法って何ですか?」
 最後にちょこんと頭を下げた母ネズミに会釈を返しながら、僕は父ネズミに訊いた。父ネズミはそれに答えずに、母ネズミの後ろ姿を見送っている。
「・・・口はうるさいですけどね、いい女です」
 彼女が子供達全員を家に入れたのを見計らって、父ネズミはひっそりと笑った。まるで何か面白いエピソードでも思い出したかのように、ひっそりと優しい瞳で笑った。
「そうですか」
 僕はまた、そうつぶやいて月を見上げる。うすく曇った月を。
「あぁ、そうだこの機会に言おうと思っていたことがあるんですよ」
 父ネズミは思い出したようにつぶやいて、ねぇ、ワタナベさん。と少しかしこまった声をだした。
「あのびーる。って言う飲み物、きちんと片づけて置いてくださいね」
 子供達が間違って飲んでしまうので。
 彼の父親らしい発言を、僕は聞いていた。僕も、起きあがって彼に向き合うとすみませんと謝った。
「そうですね。気をつけます」
 それから。
 と父ネズミはヒゲを揺らして言う。
「食べた後、きちんと片づけてください。あいつらが出てきてどうも、いかん」
 あいつら・・・?ですか?
 ネズミ以外に誰か住んでいたのか?
 ・・・あ。
「ゴキブリ。ですか?」
 ふと思い当たる節を見つけてつぶやくと、父ネズミはハッキリと判るように顔をしかめ、深くため息を付いた。
「あいつらは不潔でいかん。かさかさと下品な足音で歩き回るし」
 子供達が怖がるんですよ。あの足音。
 想像すると、おかしい。ゴキブリに比べたら体の大きなネズミ達が、ゴキブリを怖がっている姿なんて想像も付かない。
「すいません。今度退治しますから、子供達に注意してあげてください」
 父ネズミは大きく頷いた。
「私達は人間が思っているより遙かに文化的な生活を送っています」
 風呂にも入りますよ。
「風呂に?」
 驚いた僕に、父ネズミは誇らしげに胸を張り、そして少し笑った。
「えぇ、ワタナベさんの所で」
 なるほど。
 風呂場の水の入った桶をぼんやりと思い出していた。
「ねぇ、ねぇ、どんな感じなの?」
 魔法って。
 かすかな声に振り返ると、瓦の隙間から子ネズミの一人が僕の側へ来ていた。子ネズミのしっぽが僕の手のひらを撫でる。
 見れば、母ネズミが怖い顔でこちらを見ている。子ネズミをそっと手で包んで母ネズミの所まで届けると、ふてくされた顔で子ネズミは言う。
 ワタナベさんの意地悪。
 僕はその小さなお尻をつついて家に押し込む。
「早く寝なさい」
 母ネズミが、子ネズミをしっぽで叩いた。
「さっきも、言ってましたね」
 月の魔法って。
 少しずつ雲の量が多くなっていく空を見上げながら、父ネズミはつぶやいた。
 月の魔法です。と。
「月の、魔法。ですか」
「こうして、あなたとお話が出来るのも、一緒に月を見ることが出来たのもすべて」
 そうですか。
 そうつぶやきながら、僕は心のどこかで思っていた。
 ぼんやり浮かんでいる月に、僕はまじないでもかけられているのだろうか?それでも構わない。と思う。
 それもいい。そういうものがあってもいいと思う。
 ネズミが風呂に入り、ゴキブリを怖がる。ネズミの母も、人の母も同じ強い人だと言うことも。
 ざわざわと辺りの木々を揺らして、強い風が吹き抜けた。冷たい風に裸足を撫でられて、身をすくませる。
「じゃぁ、そろそろ私も」
 父ネズミも小さく身を縮ませて僕に言った。
「冷えてきましたね」
「まだまだ、夏は遠いですね」
 そう会話を交わしながら、僕は急に淋しくなる。月が雲に隠れてしまったら、きっとこの声は届かなくなるのだろうと。
「ねぇ、ワタナベさん」
 しんみりした僕に、父ネズミは言った。
「魔法なんて解けてしまえばそれまでです。それでも私は思うんです。この数分が、例え夢や幻のようにはかない時間でも、きっとどこかに残っているだろうと」
 父ネズミはひっそりと笑って僕を見上げた。
「どんな不思議も、不思議にならない魔法が、あってもいいと思うんです」
 父ネズミの声がだんだんと遠くなっていく。
 僕は父ネズミのその言葉を一言も漏らさずに聞こうと、ぐっと顔を近づける。その仕草に、父ネズミは笑いながら僕の耳を引っ張ると、顔を埋めてささやいた。
「私達が月に呼ばれたように、あなたもまた月を見ていた。それだけの奇跡で十分、私は素敵な魔法だと思いました」
 あなたに会えてよかった。
 ささやくように父ネズミはいい、にっこりと最後に満面の笑顔を僕にくれた。帰っていく父ネズミを見送りながら、辺りが静かな闇に包まれていくのを感じていた。自分を包んでいた柔らかで優しい雰囲気が、冷たい風に吹き流されていく。
 ぼんやりと優しい時間が過ぎていく。
「あぁ、そうだ」
 くるりと振り返ると父ネズミは僕の顔を見つめ、それから少し頬を染めると言いにくそうに口をもごもごとさせた。
「あの・・・あの雑誌。何とかなりませんか?」
 あの・・・雑誌?
「ほら、ベッドの下の」
 ・・・あぁ。ベッドの下のHな雑誌。
 顔を赤くして父ネズミは言う。子供の教育に良くありませんから。と。
「人間のヌードってネズミも興味があるんでしょうか?」
 思わず身を乗り出して訊くと、父ネズミはまさか。とかぶりを振る。
「うちのカミサンの方が断然グラマーです」
 いや・・・。それはどうも。ごちそうさまです。
 僕は母ネズミのふっくらとしたお尻を思い出していた。柔らかそうな毛並みや、くりくりの瞳なんかも。
「ただ、子供達に説明しずらいですから」
 性教育にはまだ早いですよ。
 そういって笑う父ネズミがとても小さいのに、大きな存在に見えた。それから、父ネズミはネズミの家の前で僕に別れの挨拶を告げていた。彼の声はもうほとんど届かなくなってしまった。月明かりで出来た僕の薄い影も闇に溶けていく。
 月が隠れていく。風が運んできた雲で。
「また、奇跡が起こったら・・・」
 一緒に月を見ましょう。
 最後は聞き取れなかったが、彼の口はそう確かに動いていた。
 見上げた空にはもう月はなく、ただ真っ黒な闇が辺りを静かに漂っていた。

 僕はひっそりと笑いながら考えている。彼らの見せた笑顔。ネズミらしくない表情を。
 月が消えると共に、僕の意識は現実に染まる。彼らを思い出しながら、同時に忘れていくのを感じる。
 忘れたくないと願うと同時に、何を忘れたくないのかを失う。
 もどかしさに拳を握ると、こつんと音を立てた。
 かちん。と何かが心の中で音を立てた。


 な・・・んで、屋根の上にいるんだろう?
 ふと見上げると、星一つ、月さえ見えない曇り空だった。
 裸足で、Tシャツ一枚で、何でまた屋根の上に?
 寒さに鳥肌が立ってる。
 ま、いいか。暖かい風呂に入って、寝よう。
 風呂場のガラス戸に手をかけたとき、急に後ろめたくなってやめた。
 誰かが、入っているような気がしたから。
 ・・・・?誰が?
 ま、いいか。
 怒られる前に、台所の後かたづけをしてからにしよう。
 ・・・・・・?誰に?

 ま、いいか。
 こんな月の夜は、何かあってもおかしくない。
 窓の外を見ると、月なんて見あたらないけどそう、誰かも言っていた。

 そんな気がする。



あとがき

 

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