「桜の香り」

 



 時間が戻ったのかと思った。十年前の春に。
 いや、そうじゃない―。



 目の前に建つビルの電光掲示板には、先程と変わらずに時を刻む時計が見える。

 一体何が起こったんだ。僕は、夢を見ているのだろうか。

 男はつい今しがた、自分の目の前を通り過ぎていった少女の姿を探していた。腰までの長い黒髪を、男の前で大きく揺らしていった少女の姿を。通り過ぎていった時、なぜか不思議と懐かしい春の匂いがしていた。

 何だろう・・・。

 思い出せずにいる自分を腹立たしく思いながら男は思う。
 なぜこんなにも落ち着かない気持ちになるのだろうか、と。
 心をちくちくと何かが刺している。心臓が苦しいくらいに脈打って、焦る気持ちで一杯だった。 胸の中一杯に冷や汗をかくような、息苦しさと居住まいの悪さが同居している。
 男の気持ちは、「早く少女を見つけないと」という気持ちに駆り立てられていった。
 そういえば、あの頃と少しも変わっていなかったように思える。
 
 ・・・あの頃って、一体何時なんだ。

 言い表せない気持ちに苛つき、男は必死で走り続ける。少女を追って。
 必死で走るうち、意識の片隅で何かが動き出すのがわかった。まるで、少女に追いつくように男の時間が戻っていくようだ。

 ・・・あの頃に。

 少女は、男の前であの頃と少しも変わらない笑顔をみせた。その笑顔が、その瞳が、男を捉えてはなさない。たった一瞬目の前を通り過ぎていっただけなのに、男には誰だったか、それが何を意味するかを知った。
 男の中で止まっていた時間が動き出す。
 美しかった少女にもまた、醜く年をとるだけの時間が男の中で流れ始めていた。

 あぁ、こんなにも美しい人が、このままでは醜く年をとって、そのうちに僕のことも忘れていってしまう。
 どうしたらいい、どうしたら・・・。

 男は、少女を追っていた。十年前に男が時を止めた少女を追って。
 男は、崩れるように桜の木の下にしゃがみ込む。半狂乱になりながら、地面を掘り返す。爪は割れ、血のにじむ手で男は何かを探して土に顔を埋めている。十年前とは変わって地面はアスファルトになり、それでも男はそんなこと少しも気になっていないというように、ただひたすら、少女を捜していた。

 ・・・・やっぱり、そんなはずはなかったんだ。

 男は小さくつぶやき、土にまみれた白い骨を取り上げた。かすかに桜の香る白いそれは、少女の十年前の姿だった。
 くたりと男に身体を預けた少女は、柔らかな白い肌だった。艶やかな黒髪も、ぽってりと膨らんだ桜のつぼみのような唇も。
 このまま閉じ込めてしまえたらと、どれだけ男を急かせたことか。
 美しいまま、桜の下に埋葬された少女。
 骨だけになった今も変わらず、桜の下で静かに眠っていた。

 からんと乾いた音を立てて、少女の白い腕がこぼれ落ちた。

 男の中で、何かが壊れた。
 長い髪も、微笑むと美しく崩れた目元も、やんわりと香る桜の香りも、あの頃の様には男の手には戻らなかった。

 少女の亡骸をかき集め、男は泣いた。
 
 また少女は男のものになった。



 

あとがき

 

 

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