「 柔らかなシッポ 」

 




「信じられないと思うんだ」

 そう言って彼は、ばつの悪そうな顔をした。本当に申し訳なさそうな顔をしてぺこりと頭を下げた。
 その時の私は、多分頭がおかしかったのだと思う。だってそう思うはずがないのだ。どこの誰が見たって、ふさふさの体毛に覆われた犬の顔が、“ばつの悪そうな顔”に見えるのだろう。・・・見えるはずがない。目の前にいるのは、紛れもなく、犬だった。どこからどう見ても犬だった。
 でも・・・それは人間の言葉を話す犬で、しかも部屋の中に音もなく突然現れた、とてつもなく驚異の犬だった。
 犬!犬がいる!
 金色に輝いた美しい毛並みの犬。濃い茶色の鼻がつやつやと濡れていて、ぱたぱたっとしっぽが揺れた。とても綺麗な犬だった・・・言葉をしゃべる犬ではあるが。
 つい先ほどまで、水道の水のように泣き続けていた私の涙は、驚きでぴたりと止まった。私はとうとう、おかしくなってしまった。と思った。
 先週、愛する彼と死別した私は、それ以来ずっと毎日毎晩泣き通しで目もひどく腫れていた。あまりにも突然の死だったので、私の中では今でも彼がどこかで生きているのではないかという気がしてしまう。ぽっかり空いた心の隙間が、とても寒いのだ。 
 彼に会いたいと、それだけを思って泣いていたから・・・。だからそう勘違いしてしまったのだと。そう思いたいだけのおかしい女なのだと自分で自分を笑った。
 その犬が彼だと、瞬時に思ってしまった私を。
「だって、僕だって信じられないんだよ。当事者の僕だってさ」
 そうしてまた、その犬はくしゃりと困った顔をする。
 私の前には犬がいる。何度見ても疑いようもなく犬で。閉じこもりきりだった部屋の中が明るくなってしまうくらい、鮮やかな金色の毛をした犬。一度は飼ってみたいと夢に見たゴールデンレトリバーで・・・。
 そして、それは彼なのだと思う。私が愛した、彼なのだと。
 それは瞬間的に私の中で理解された唯一の事柄だった。間の前にいるのは彼なのだと、それだけははっきりとしていた。
 私の彼という人は十歳も年下で、世間なんてものを何にも知らない、現役高校生だった。その未熟で純粋な心も、すくすくと育った大きな体も。体の隅々まで愛した、そのすべてを知り尽くした私の彼。けれど、今は何故か見る影もなくただの犬。
 憧れのゴールデンレトリーバーであることを除いては、あまり好ましくはない。
「そうなんだよ、びっくりするよねぇ」
 何も言わない私を、ただ驚いて言葉が出ないと解釈したのだろうか。彼はそういってうんうんと頷いて見せた。
「でも、僕はこうして君の前にいる。こうして君の前に帰ってこられたんだよ」
 僕は今とても幸せだ。
 彼は天井を見上げて、ぐっと伸びをする。気持ちよさそうにぐぐっと首を逸らせて、それからとびきりの笑顔で私を見つめる。
 ・・・それが、彼の喜びを表す態度だと知っていた私は、とてつもなく落ち込んだ。目の前にいる犬が、私の彼なのだと疑いようがなくなってしまったのだ。とてつもなく落ち込んだけれど、愛する彼の登場は流し続けた涙を一瞬にして無にしてしまった。
 落ち着いた私を見ると、彼は満足そうににんまりと笑い、懐かしそうに部屋を見回した。
「びっくりしたよねぇ。僕もこうして戻ってこられるなんて思わなかったもの。本当にびっくりだよね」
 そういいながら目の前で彼がくるりと背中を見せた。金色の体毛が艶やかに輝いていて、しなやかな筋肉の付いた体が、生前の彼を思わせた。思わずその背中を抱きしめそうになって、躊躇する。
 目の前で尻尾がぱたぱたと揺れ、ふっと彼がこちらを振り返る。
「びっくりっていうか・・・さぁ」
 私は伸ばしかけた手を慌てて引っ込めると、彼に言う。
 だってさぁ・・・。
「だって君、この間私を置いて死んじゃったかと思ったら、急に生き返ってきて。しかも犬でしょ?なんかそういうのヤだな」
 なんていうか・・・すごく適当じゃない?
 そう言葉がぼそりと出てきた。きっとそれは私の素直な感想だったに違いない。その一言に、彼はがくんと肩を落とす。ふわっと彼の体毛が揺れて私の目の前に犬の毛が舞う。金色の体毛が、なぜか彼の匂いがするからとても嫌だ。
 とても・・・とても嫌だ。
「美弥ちゃん・・・・」
 そう一言つぶやいて、彼は泣いた。彼はとても泣き虫だった。大きな体を揺らして、よく泣いていた。その泣き虫な背中が好きだったことを、きっと彼は知らない。
 死ぬまで、そして犬として生き返ってきた今も。きっと知らないのだ。
 私は彼に言いたいことが沢山あった、伝えたい気持ちもたくさんあった。私たちの歴史がとても短かったことを思い知らされる。
 ふと彼を見ると、言いたいことがあるのに!と、もどかしそうなそぶりをしてぱたりと床に伏せた。そして、体を震わせて泣いている。茶色の鼻から鼻水をたらして。しっぽをぶるぶると震わせて。彼は泣いていた。震えたしっぽがふさふさと揺れるたびに、私の心はその悲しみに感化されたかのように切なくなっていく。
 犬も泣くんだ。なんてぼんやり思いながら、私は彼の体を抱き寄せた。抱き寄せるには大きな犬だったけど、人間でいた頃の彼よりは軽い。とても軽くて、とても小さい。
 そして・・・とても頼りない。
 歳のわりに成熟しきったやたらと大きな彼の体が、とても懐かしい。
「でも、これからはずっと側にいられる。どんなときもずっと」
 ひとしきり泣いた後、彼は言った。確信をこめて、はっきりと。
 その顔はどこか誇らしげでもあり、・・・とても幸せそうだった。
 その笑顔に流されそうになりながらも、私は震える唇を開いた。
 ・・・どんなときもずっと。ですって?
「嘘つき」
 私はそれだけ言うのがやっとだった。



 

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