嘘つき。なんて嘘つきなの。 私は苦しくて、苦しくて。今にも泣きそうだった。 「これは夢じゃないんだよ?僕を抱いているでしょう?この感触は嘘じゃないよ。僕は美弥ちゃんに抱かれてる。この感触は嘘じゃないでしょ」 彼は私のひざの上でぎゅっと体を押し付けてくる。爪を出さないようにと気を使っているのか、丸めた足がかわいらしい。ふわふわの体毛がとても柔らかくて、温かい。この感触はきっと嘘じゃない。 だけど。 彼の言葉には、嘘ばっかりだ。 「ねぇ、前にこんな話をしたの覚えてる?」 順当に行けば、きっと先に死ぬのは私だって。 そこまでつぶやいて、こらえきれなくなった涙が彼の背中に落ちた。あわてて涙を受け止めようと差し出した手がむなしく空振りした。 ひざの上の彼が驚いたように飛び起きて、私の顔を覗き込んでいる。 私は泣くのが嫌いだ。彼がとても泣き虫だったから、彼の分、私は泣かないことにしたのだ。彼が死んで、それ以来私はとても泣き虫になってしまった。 「先に生まれていたのは私だから、きっと先に死ぬのも私だって、そう話したことがあったでしょう?」 「でも。でも、僕はこういったよ。君が死ぬときは僕も死ぬってそういったよ・・・実際のところ、僕のほうが先に死んじゃったけど」 そこで少し苦笑いをしていった。 ・・・もう、犬が彼にしか見えなくなってきた。 諦めてしまったのかも知れない。目の前にいるのはただの犬だと思うことも、これは夢だと思うことも。そして、愛する彼が死んでしまった事実を、嘘だと思うことを。 「でも、私はこう言ったわ。私が死ぬときはあなたが付いていて、幸せに死ねるように、最後の瞬間まで愛していてねって」 最後の瞬間まで、私を愛して。って。 そう言うと、彼は私の顔を見上げた。じっと私の瞳を見つめていた。その瞳が間違いなく彼の持つ瞳だと思うと、いとおしくなってしまう。 最後の瞬間まで、私を愛して。私は彼に言った。私が旅立つ先が天国か地獄かなんて、くだらない考えをしないように。今まで生きてきたことを後悔しない様に。 私はあなたを愛したまま。純粋にあなただけを想って死んでいきたかったのよ。あなたの顔を忘れない様に。あなたの愛を忘れない様に。死んで何もなくなった私が、あなたを愛せる様に。 ・・・苦しくて、息が出来なくなった。 自分の気持ちがこれほどまでに苦しいものだったなんて、気づきもしなかった。彼を失って、取り戻した寂しいだけの私が・・・ふと舞い戻ってきた。 ぼろぼろと、涙はこぼれて止まらない。 ・・・私、泣き虫だったんだね。 「美弥ちゃん。泣かないで。僕はここにいるよ。僕の前では、泣かなかったでしょう?」 僕の分まで、泣かなかったじゃない。 そういって彼は、やわらかい肉球で私の頬を拭った。それはとても犬らしいしぐさとは思えない。いつもは私が彼の涙を拭っていた。彼にしてもらうのは初めてで、この肉球が彼の大きな手だったらと思うと・・・そう思いはじめてしまったらきっと、涙なんて止まらない。 ふと顔を上げると、目の前の犬が一緒に泣いていた。頬の周りの毛はすっかり濡れてしまって、べっとりと張り付いている。犬の泣き顔は、泣き続けてむくんだ私の泣き顔よりも、ずっと悲惨だった。 「僕が側にいる。今度こそ約束するよ」 「・・・犬の寿命はとても短いのよ」 彼の嘘にはだまされたいけど騙されない。 自分についた嘘だって、自分さえ騙せなかったのだから。彼は死んでいないと、つい先ほどまで言い聞かせていた言葉でさえ・・・。 「・・・うぐっ」 彼は犬の顔であたふたしている。ぴんと張っていたヒゲも、その口元もなぜか忙しなくくしゅくしゅと動いている。妙な犬だと思う。でも、それは彼だとも思う。間違いなく、彼だと思う。 そして、こんな話をしてしまうのだ。生前の彼にはしたことのない、私の本音を語ってしまう。 「あなたを失って、それだけで私は一生分の悲しみを使い果たしてしまった。だからこれ以上失うものなんていらないわ」 ひとりで十分よ。 その一言は、今の私のすべてだ。彼を失って、私の中から失うものなんて何もなくなってしまった。これ以上失うものなんて、きっとない。 「知ってるかい?世界にはとても長生きな犬だっているんだよ。だから僕はその辺の犬よりずっと長生きだと思わない?」 だって、一度死んでいるんだからね。彼はヒゲを揺らして得意そうな顔をする。 その辺の犬よりずっと長生きだって、そういうかもしれないけど。それなら、どれだけ長生きできるのだろうか。私はきっと、長生きだ。祖父も祖母も。百歳に手が届く程の長生きだった。私が平均寿命まで生きたとしても、私の命は最低でもあと五十年位はあるわけだ。 普通に生きていたら、きっと私は彼より先には死ねない。普通に生きていたら、彼は私より先に死んでしまう。 「ね?だから元気出して」 にっこりと口の端を上げて犬は笑った。大きな口が妙に間抜けで切ない。 それで私が泣き止むと思ったのだろうか。 彼は嘘が下手だと思う、もっとずっと嘘が上手かったら私は救われたのだろうか。 彼が犬となって生き返ってきてくれた。その優しさに甘んじて、彼とまたあの幸せな時間を過ごしていく。それは私が、心のどこかで願っていたことなのかもしれない。彼を失った悲しみに耐えられなくなって、私が生み出した幻想なのかもしれない。 けれど、それにどっぷりと浸かって、私は幸せを取り戻す。 ・・・そして。 いつの日かまた、彼は私よりも先に逝ってしまう。私は再び悲しみに沈んでいるに違いない。今よりずっと、さらに深い悲しみに。取り戻した幸せの分、きっとずっと、深くて辛い。 「これ以上、何も失いたくない。同じ悲しみを、二度も繰り返さないで。お願いだから・・・繰り返さないで」 その時、彼はとても悲しそうな顔をしていた。くりくりの瞳には悲しみが一斉に広がっていくのが見えた。すうっと音もなく、彼の瞳は悲しみで一杯になって、その瞳に零れない涙が一杯になっていくのが見えた。 それを見て、私は例えようもなく寂しくて、心細くて堪らなかった。 それは生前の彼が時折見せた瞳だった。時折、どうしようもなく切ない瞳をして私を見ていた。 「・・・あと十年早く生まれていたら、僕はもっと君の側にいられたかな?あの日に命を落とすと決まっていたとしても、あと十年、長く君の側にいたかったよ」 「たった十年?」 「そう君は言うかもしれないけど。僕は君と同じ時間に生きたかったよ。あと十年多く、君を愛せていたら。僕はさらに十年幸せな人生を送れた」 私は涙が止まらなかった。 とてもとても、幸せで。二人が出会ったあの頃は、私も彼も歳の差を気にしてとてもでこぼこだったから。だけどあの時間は何よりも大切だとも思っていて。その時間を彼は、少しも後悔せずにいてくれた。 それだけで、十分な気がしていた。 「でも・・・僕はとても贅沢だ。君と出会った運命は、今の僕らだからあった運命だよね」 そういって、彼は涙でぐしょぐしょの私を、頬擦りして拭ってくれる。頬擦りするたびに、彼の匂いのする柔らかい毛に包まれた。私の涙は、彼の体に吸い込まれて幸せに変わるような気がした。 だから私は、止めどもなくあふれる涙を、彼の前で見せる涙を、今日だけは許すことにしたのだ。 彼に吸い込まれて、幸せに変わっていく。そうして私も幸せになれるような気がしているから。 「きっとそうね」 私が先に生まれた十年を戻したいと思ったのと同じに、彼もまた遅く生まれた十年を後悔していたのだとしたら。 私たちはとても罰当たりなのかもしれない。すれ違った十年に、私たちの出会いが生まれたのだから。 「君に出会ったのも、君を愛したのも運命だとしたら。あの日に死んでいくのも運命だとしたら、僕はとても満足な人生を送ったよ。そう思える」 その言葉が、私の心を救ってくれた。彼のその愛が、私を救ってくれた。 「私もそう思うわ。私もあなたと出会ったこと、あなたを愛したこと。あなたを失ったことを後悔しない・・・きっと」 すべてを否定したくないから、私は後悔しない。 もう、後悔なんてしない。 「美弥ちゃんは本当はとても泣き虫で、見かけだけの強がりで。だからとても心配だったんだ。僕が死んでから君は、毎日毎日、泣いてばかりだった。干からびてしまうんじゃないかって、本気で心配したんだよ」 そういって彼は、体をゆすって笑った。揺れる毛が空気を揺らした。 「・・・大きなお世話よ」 私は久しぶりに笑えた気がした。彼に付き合うようにして私の口は緩んで、私の気持ちも緩んで。そうして、ふっと小さく笑えた。 久しぶりに緩んだ口元が、lなんだかぎこちなくて困った。けれどずっと心が楽になって私はもう一度笑った。 その笑顔を見ると、彼は満足そうににんまりと笑った。 「もう、大丈夫かな?」 「え?」 「ひとりでも、大丈夫だよね」 その時、私はどこかで理解した。彼は帰ってしまうと。私の様子を見に、元気付ける為にここにやって来てくれたのだと。 ぱたぱたと尻尾が揺れた。嬉しそうにぱたぱたと何度も揺れていた。 「ひとりで十分よ」 今度はずっと落ち着いた気持ちで言えた。建て前でも、強がりでもなく心からそう思った。 もう一度、にんまりと笑うと彼はくるりと背を向けた。そして彼はふさふさの尻尾で、私の膝を撫でた。 「君の代わりに泣いてあげる」 だから強く生きて。 背中を向けたまま、彼は言った。 だから強く生きて。 もう一度つぶやいて、彼は消えた。 現れたときと同じように、音もなくすっと消えた。消えていく最後の瞬間、彼は私を見てはくれなかった。けれど、消えていくほんの一瞬、ちらりと振り返った犬の目には大粒の涙が今にも零れ落ちそうになっているのが見えた。 あの涙の数粒には、私の悲しみがあるのかと思うと。私は今までよりもずっと強く生きていけると思った。これからも、彼が泣いてくれると思ったら。私は彼の分も、強く生きなくちゃいけないと思うから。 膝を撫でたやわらかな尻尾は、私の心をくすぐって幸せで一杯にしてくれた。 彼を失った悲しみは、彼を泣かせてしまう辛さに比べたら。きっとずっと辛いと思うから。 だから私は、強く生きていける。 そう、思った。
|