『 "その先"への一歩 』

 



 卒業を一週間後に控えた三年生の教室は荷物も少なく物寂しい空気に包まれている。
 すでに学校に来る用事さえも無くなってしまった三年の教室には、ロッカーに置かれていた辞書も参考書もきれいさっぱり片付けられ、今までこの教室で勉強していたという雰囲気さえも消えていた。
 寂しい教室の中、美希と柚子が大量に買い込んできたお菓子をつまみながら、俺たちは放課後を意味も無く過ごしている。
 卒業式の予行演習の為に久しぶりに学校に訪れていたのだが、それもすぐに終わってしまった。かといってすぐに帰るには忍びない気がして、こうして誰も居ない教室で打ち上げパーティーなるものを開いていた。
「私たち、もう卒業なのね」
 お菓子の箱を開けながら美希はふと呟いて、その手を止めた。広げられた袋からもくもくとお菓子をつまんでいた俺は、その言葉一つでその場の空気が妙にしんみりとしてしまった事に気がつく。それまであったくだらない会話が影も形も消え、賑やかだった空気が静まる。
「そうだね。あっという間だった・・・」
 俺の隣でポテト菓子を頬張っていた柚子が、ぼそりと呟いた。いつもはそういう雰囲気を嫌うはずの柚子も、言葉の終わりと視線とをやんわりと宙に投げて言った。
 その時に見せた表情が、妙に大人っぽく見えて意味も無くどきりとする。
 ・・・が。口元まで運んだポテト菓子を宙ぶらりんにして、という中途半端な状況ではあったが。
 まったく、その菓子の身になってみろって。
 その姿に一瞬でも心を動かされた自分がほんの少し恥ずかしくなる。
「みんなの進路が別々だから、妙に寂しい気がするんだろうね」
 誠がその"しんみりさ"を更に強調するような一言を呟いて、缶コーヒーを口に運んだ。
 看護学校への進学を決めた柚子。
 小学校の教師になることを夢見て、大学進学を決めた美希。
 地元国立大学への進学を決め、大好きな歴史を研究するという誠。
 それぞれが、それぞれの道を見つけてそれに向かってどんどん進んでいく。確かにそれは、初めて俺たちに訪れる"旅立ち"という別れの形だった。
 だけど・・・何もそのしんみりさを、今ここで思い知ることは無いんじゃないか?
 誰かこの空気を止めてくれ。
「卒業したっていつだって会えるだろう?そういう気分で盛り上がるのは結構だけど、俺のいないところでやってくれよ。こういう雰囲気、大嫌いなんだよな」
 我ながら憎たらしい言い方だと思う。だけど・・・本当は苦手だから。とはいえない。気を紛らわせたくて、ごくごくとコーラを一息に飲み干して缶を潰す。
 隣に座っていた柚子が、あからさまに非難の目で俺を睨み付ける。
「啓祐にはわかんないのかなぁ、この寂寥感が」
「・・・おまえ、意味わかって使ってんの?」
 そんな小難しい言葉一つで片付けられる様な寂しさか?
 ・・・そんなわけないだろ。
「・・・わかってるわよ」
 ふん。と鼻を鳴らして柚子はそっぽをむく。さらりと目の前で揺れる柚子の襟足の髪は、随分と長くなった。柚子の髪は何度か切り揃えを繰り返し今の長さまでこぎつけた。伸びかけが鬱陶しいと何度癇癪を起していただろう。やっと肩にかかるくらいに伸びたその長さが、柚子の精一杯の女らしさの様に思えて、それだけでとても愛しい。
 飾り気もなにも無い洗いざらしの髪だけど、そういう洒落っ気の無い柚子が、それでも好きなんだなぁとふと思ってしまう。
 そう。やっぱり好きなんだなぁって、思い知らされるんだ。
 思い知らされる、今日この頃なんだ。
「・・・何よ」
 俺の視線に気がついたのか、柚子がちらりと視線を送りながら言う。
「伸びたなぁと思ってさ」
「な、なんなのよ!スケベ」
 さりげなく髪に触れて言うと、大げさにその手を振り解いて声を上げる。
 この髪の成長を見守り続けたのは、俺だぜ?その態度はないんじゃない?
「卒業しても、僕らはずっとこのままだね」
 先程とはうって変わって明るい声で誠は言い、一番しんみりしていたはずの美希も幸せそうにうなずく。
 "このまま"の部分が、相変わらずの柚子と俺のやり取りにも引っ掛かっているようで、むっとして誠に視線を送る。
「そうね」
 柚子は気を取り直してそう言い、俺に視線を投げつける。そうでしょ?と。その視線に押さえつけられるように、ああと相槌を打つ。
 ずっとこのまま。
 ・・・そうありたいと願っているのは、誰であろうこの俺なんだろうな。
 そして、一番しんみりしているのもこの俺なのかもしれない。


 卒業して、みんなと別れることが寂しくないわけじゃない。
 卒業を機に、この学校にはもう来ることが無いんだと思うだけで、ただそれだけの事でさえ、なんとなく寂しいというのに。みんなと別れるということがどれだけ寂しいものか、わからない。これからだってこの四人はいつもと変わらない。それだけは確かだといえる。
 けれど、毎日を騒がしていた柚子とのやり取りがなくなってしまうと思うと、妙に寂しくなってしまうのだ。女らしさの欠片もないやたらと突っかかってくる柚子だが、それがなくなるのかと思うとひどく心細い気持ちになってしまう。
 惚れた弱みというものなのかは知らないが、そんな柚子が一番魅力的だと思って、だからそんな柚子の側にいられないのが・・・。
 それが、一番辛いのかもしれない。
 
 失恋した柚子に、告白をしたことがある。・・・勢いに任せて、という我ながら情けない告白の仕方ではあったが。状況が状況だったので、それきり柚子からは何も言っては来ない。改めて告白することで、柚子の傷を広げてしまう様な気がして出来なかった。
 まだきっと、失恋の傷は癒えていないとも思って。
 だから、あれからずっと変わらない毎日を過ごしてきた。

 答を出して欲しいと思う。
 けれどその一方でずっと変わらずにいられたらいいとも思う。
 今までと何一つ変わらずに、いつまでも柚子とはしゃいでいたい。からかったりして柚子を怒らせることも、仕返しに妙ないたずらを仕掛けられることも。毎日を楽しく彩っていたたくさんの出来事が、これから先もずっと続いたら。それだけで十分に幸せだと思うから。それで十分だと思えてしまうくらいに、幸せで楽しかったから、今の俺は変化を恐れていた。
 だって、変わりたくないんだ。ほんの少しだって。
 子供みたいだって、自分でもわかってるんだ・・・。


「僕、卒業したら美希と暮らそうと思ってるんだ」
 誠はそういって、ふと俺を見た。
「はぁぁ?」
 な、なんだよ、いきなりだな。
 驚いて、椅子から転げ落ちそうになった。
 美希と柚子が二人仲良くトイレへ席を立ち、誠と二人ぽつりと教室に取り残されていた。
 口の中にレモン味のキャンディーを放り込んだ時だった。誠がそのびっくり発言をしたのは。
 その時の俺は、甘ったるいレモンの味にうんざりしながら、先程までの会話を思い出していた。柚子とのやり取りのあたりで少しだけ傷付いたりしながら、今頃ひとりでしんみりとしていた。
 いつまでも変わりたくないなんて、子供じみた自分に気がついたりもしながら。
 そんな時に、机の上の菓子の残骸を片づけていた誠が思い出したように言うものだから、最初何のことだかさっぱりわからなかった。
「・・・ど。同棲するのか!?」
 あまりにも突然の事に、口の中にあったキャンディーを飲み込みそうになった。そんな俺の動揺をおかしそうに誠は見ている。その飄々とした態度から誠の真意を確かめようと、椅子の向きを変え座りなおす。
 誠は眼鏡の奥で意味ありげに小さく笑った。
「・・・お前、大学どうするんだよ!?」
 誠の様子から、嘘でも冗談でもないと感じてそう訊ねる。普段冗談を言わない誠の言葉だったので、素直に飲み込む。
「もちろん、行くさ。大学へ行って卒業して、その頃僕らが変わらずに一緒にいられたら・・・結婚出来たらいいって、そう思ってる」
「お、おい・・・」
 いきなりの上に、更にいきなりな展開だな。
「もちろん、結婚っていうのはあくまでも僕の希望としてだけどね」
 "あくまでも希望"と言いながらも、その言葉がやけに強く聞えていた。言葉に含まれている意味とはかけ離れた強い感情に、それを言わせた誠の決意を思わせて、俺は少しだけうらやましい気がした。
 強い意志と、変わらない愛情とに。
「へーえ。誠でもそんな熱くなることがあるんだなぁ」
 目の前にいる俺が、妙に照れくさくなってからかってみる。二人はそれほどまで強い気持ちで結ばれているのだと思うと、照れくさくてしかたがない。
 ・・・なにも、第三者の俺が恥ずかしがることなんて無いんだろうけど。
 正直なところ、置いて行かれたようで焦ってもいた。子供みたいに、今のままでいいなんて思っていた自分が、本当は大人になりかけている歳なんだと、そういう時期なんだという事に気がついて焦った。
「"結婚"の事はまだ美希にも言ってないんだ。それが妙な足かせになってあいつの好きなことが出来なくなってしまうのは本意じゃないし、僕らは僕らの決めた道へ進んでいって、それでもその時、お互いの気持ちが変わらなかったら。ってそう思っているだけだよ」
 我ながら、子供みたいだけど。
 そう言って誠は照れくさそうに笑った。子供みたいだけどといった誠の発言が、自分をはるかに超えた大人な発言に思えた。
「"そういう"啓祐は、どうなんだい?」
 "そういう"がどこに掛かっているのかはわからない、ただ意味ありげに誠は訊ねてくる。
「どうって・・・なにが?」
 いきなりの方向転換に、どうなんだい?と訊ねられても質問の意図が読めない。
「柚子とはどうなの?」
 好きなんだろ?柚子のこと。
 誠は唐突に質問を投げつけて、レンズの奥から意味深な視線を送る。誠は、俺が柚子を好きだということはうすうす感づいていたのだろう。付き合いが長いし男同士ということもあって、誠には自然とバレてしまう。俺が誠の気持ちに自然と気がついたのと同じ事だ。
 その問いに、俺は妙に慌てながら辺りを見回した。
 柚子にこの会話が聞かれてやしないかと。
「さ、さぁ・・・」
 先程受けた誠のびっくり発言がまだ尾を引いている俺は、しどろもどろになってはっきりとは答えられない。柚子が誠に片思いをしていたこと、失恋をしたこと。それらをここで言うわけにもいかないし、だから余計にはっきりと言うことが出来ないでいた。
 第一、誠のあの発言の後では、さすがに分が悪い。
「正直なところ、啓祐はどうしたいんだい?お前がどうしたいのかはっきりしなくちゃ、誰だって反応できやしない。柚子みたいに融通の利かないタイプは特にね」
 ごもっとも。
 俺は口の中のキャンディーを噛み砕いて苦笑いする。
 本当はわかっている。
 卒業は単なる別れじゃないんだって、その先へ進む第一歩なんだって。だからこそ、それを境に別々になるのなら、何か変化を起さなくちゃいけない。
 だけど俺はそこから一歩も進めなくて、進みたくなくて。自分から変化を恐れていたんだ。
 誠の男としての意志の強さに感服した今、自分に問い掛ける。
 俺はどうしたいんだ、って。
 遠くから柚子と美希の話し声が聞えてくる。
「本当は、わかってるんだろ?自分がどうしたいのか」
 二人が戻ってくる気配を感じて、誠は笑った。
 本当はどうしたいのか。
 それはあの時から一つも変わらない気持ちで存在し続けている。
 柚子が好きだという気持ち。


「なんとなく、避けてきたみたいになっちゃったかな?」
 気を遣ったつもりなんだけど。そう言って柚子は俺を見上げる。
 柚子は誠と美希を二人きりにしたいと気を遣い、校門を出るとすぐに柚子は俺の腕を引いて先に歩き出した。気を遣ってくれたのは誠たちの方なのかなと思う。あの会話の後だから、誠が妙な気を遣って俺と柚子が居心地の悪い空間を作ったのだ。
 二人で妙にくっついたりして。
 なんだかあてつけにも思えてしまうその気遣いに、応えることが出来そうにも無いなぁと思いながら、隣を歩く柚子を見る。
「あの二人、自分たち以外は見えてないんじゃない?」
 あの状態だったらさ。
 いつもどおりにからかい半分、嫌味半分でそういうと、いつもなら一緒に冗談を言う柚子がふーん。とそっけなく相槌を打ったので、それ以上何も言えずに無言になってしまった。それきり、妙に無言になってしまって黙って歩いていた。だけど、その無言の時間が息苦しくないくらいに、俺たちの中は相変わらずの平穏さをもっていた。
 そのままずっと黙って歩いていると、住宅街の路地から踏み切りに差し掛かる。
「啓祐」
 踏み切りを越えたところでふと名前を呼ばれた。声の主へ顔を向けるために横を見ると、いままで隣で歩いていた柚子がいない。慌てて立ち止まって振り返ると、踏み切りの中頃までで足を止めた柚子がこちらを見ていた。
「そんな所に立ち止まってないで、早く渡っちまえよ」
 電車の本数が多いこの時間帯は、踏切の真ん中でのんびりと立ち止まっているのは好ましくない。
「啓祐」
 もう一度、柚子は俺を呼んだ。俺の言葉が届いていないかのように、先程と少しも顔色を変えずに。
 もう一度柚子を呼ぼうと口を開きかけて。
 ・・・何も言えなかった。
 踏み切りの真ん中で立ち止まって俺を呼ぶ姿が、不思議と別人のように見えて声を掛けられなかった。
 夕日の中、春風に吹かれて佇む柚子が一人の女に見えたから。
 ケンカ友達でもない、同級生でもない。いつものどこか乱暴な言葉遣いも、女らしさの欠片もないそぶりも、柚子らしいすべてが削げ落ちていたように見えた。春の強い風に髪を乱しながら、ばたばたと忙しくはためくコートの裾も気にせず、名前と同じユズのように濃い色の夕日に照らされて、柚子は立ち止まっていた。
「啓祐、ありがとう」
「え?」
 ごうごうと耳元をすぎていく風の音で、それが空耳のように聞えた。
「啓祐、いままでありがとう」
 そっとしておいてくれて。
 今度は"ありがとう"と口元が動いているのは読み取れたが、その後に続く言葉がわからない。カンカンと騒がしい音が鳴り出して、遮断機が降りていく。柚子は慌てて後ろに下がり、その様を見送る。
 電車がやってくる音が線路を伝って聞えてきて、俺たちの間を踏み切りが遮った。
「柚子」
 声を掛けてみても、踏み切りの音と電車の音でこの声は届いていない。二人の間に出来た、たった数メートルの距離がひどくもどかしくて、二人の間をはっきりと遮断した踏み切りがひどく憎らしくて。
 今までと、これからをはっきりと線を引いたように見えた。
 踏み切りの向こう側と、とりこのされた俺と。そう思えてならなかった。
 実際、踏み切りを渡り損ねたのは柚子で、そんな風に思うのは馬鹿げていると思うのだが、踏み切りで立ち止まったときの柚子がひどく大人びて見えて。知らない柚子を見せられたような気がして、心の奥がそわそわしていた。
 がたんがたんと大きな音を立てて、目の前を電車が通り過ぎていく。
 柚子の姿が見えなくなってしまった。
「柚子!」
 思わず叫んでいた。騒音に負けないようにと声を張り上げて。
 数秒の後、電車は騒音を響かせて過ぎて行き、目の前には再び柚子の姿が現れる。踏み切りが上がりきるのがもどかしくて、自然と足が動く。
「啓祐!」
 飛び出していこうとした俺に、柚子が勢いよく飛びついてきた。
「今までごめんね。ありがとう」
 好きだよ。
「い、いま何て言った!?」
 驚いてしどろもどろになる俺に、さぁ、ととぼけて笑う柚子は、いつもどおりの柚子だった。


 ほんの少しだけ、これから先が明るく見えた。
 これからの毎日が、ほんの少しだけ明るく見えた。
 変わりたくないと願い続けた気持ちが、変わりたいという気持ちに変わった。
 守りたいものが出来た。
 進んで行きたい先が見えた。 
 この後に迎える卒業も、進学も。
 まっすぐに俺の背中を押してくれる、最初の一歩になる気がした。

 それだけで俺は、その先の一歩を踏み出せた気がした。



...fin

あとがき

 

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