「 天国の宿題 」

 




 教室の外は雨だった。北側に立つ校舎は、日当たりの悪さも手伝ってやけにひんやりとしている。廊下に出れば授業中の人の無さも手伝って、そこに漂う空気は硬直しているかの様にしんとして冷たい。
 教室の中では、ストーブが炊かれていた。しゅんしゅんとやかんが音を立て、灯油が燃える臭いがする。雨が雪に変ってしまいそうな、寒い午後だった。
 教室の中は午後のけだるい授業の真っ最中。昼食をとっているせいか、みんなひどく眠そうで、黒板の前に立つ教師のくちぶりもなんだか重い。
 いつもと変わらない午後の風景。
 少しも変わらない教室の空気。
 いつもと変らない毎日がそこにあった。
 ここには、あっという間に一日が経ってしまうくらいの活気と、僕らには短すぎる時間が存在している。その中にいたら、決して感じることのないそれらを、きっと気付かずにいるに違いないそれらを、僕はじっと見つめていた。
 僕はベランダに立っていた。風に乗って吹き込んでくる雨が、ベランダをじっとりと濡らしている。僕は濡れたコンクリートの上に立って、雨がぽたぽたとコンクリートに吸い込まれていく。
 外から見ると、僕らの時間はあまりにも静かに見えた。

 ついこの間まで、僕はこの教室にいた。この中にいて、同じように退屈に授業を受け、ぼんやりと外を眺めたりしていた。
 僕をこの場所へ追い出したのは、死。まさか自分があっけなく死ぬとは、思いもよらなかった。僕は誰よりも健康だと思っていたし、もちろん長生きするとも思っていた。生まれてまだ十五年。誰も死ぬとは思わない。けれど、人の人生とはわからないもので、先日の体育の授業中、心臓発作を起してそのまま。心臓発作を起すようなやわな身体なんかじゃないと思う。けれど、実際にそれで死んでいるのだから、今更どうにもしようがない。それが運命だと割り切ることができれば、そんなに辛いことでもない気がしていた。
 それきり僕は、"こっちの世界"の住人になってしまった。"あの世"という言葉があるけれど、生きている世界と死んでいる世界の違いなんてきっと紙一重だ。区別なんてない。死んだ僕はここにいて、生きている人間だってここにいる。間に隔たりなんてない、むしろ何もないから僕はこんなにもあやふやだ。
 本当は、自分が死んだなんて思いたくない。認めたくない。けれど、自分の机の上に花瓶が置かれているのを見たり、自分の葬式なんかを目の当たりにすると、それはもう疑いようがない。
 それなのに、今の僕の存在はあやふや。
 生きている実感なんてとうに無い。でも、死んだという実感もない。"死んだ"という言葉が正しいのかどうか、本当はわからない。生きているということがどういうことで、死ぬということがどういうことなのか、そんなことはどうでもよくて。僕は、"こっちの世界"に存在している。きっと、それだけなんだ。
 死というものは、存在そのものが消えてしまうのだと思っていた。魂とかそんな高尚なものが、僕の中にあるとは思わなかった。言葉で言うほど、立派なものが僕を動かしていたとも思わない。命という言葉の方が、ずっと身近で理解しやすい。
 僕の命が尽きたから死んだ、そう考える方がずっとわかり易いから。「死んでも魂は生き続ける」なんていわれたところで、そうか、よかったなぁ。なんて開き直れるほど今の僕は物分りはよくない。
 生きていた頃と、僕はほとんど変わらずに存在している。けれど僕には、感覚がない。とくとくとそれまで時を刻んでいた心臓の鼓動も聞えない。身体というにはあまりにも不十分な今の僕のすべて。
 空想の世界でよく言われる、実体を持たない身体。しっかりと地に足をつけて歩いているつもりでも、僕の足には歩いている感覚も、地を踏みしめている感触もない。どれほどの距離を歩いても、疲労も感じない。距離感もまったくない。
 今の僕には、何もない。
 あるのはただ、空ろな自分。



 僕の体は、この学校の敷地の外へは出られなかった。だからこうして、毎日ここにいる。今の僕が幽霊であるなら、よく言うところの地縛霊らしい。成仏できていないということなのだろうけど、実のところ成仏できない理由がわからない。確かに、僕は思いもよらないところで死んでしまったけれど、未練なんてひとつもない。むしろ、向こうの世界から逃げ出せることが出来て、清々しているくらいなのに・・・。
 ・・・どこにも僕の居場所はなかったから。

 僕には生まれたときから父さんがいない。母さんが一人で働いて頑張っている。母さんは好きだけど、母さんは僕を好きじゃないみたいなので、ひどくむなしい気持ちばかり抱いていた。僕には二つ上の兄さんがいる。兄さんはとても頭が良くて、奨学金を貰って大学に通っている。・・・母さんの自慢の息子だ。
 僕の家には、"自慢の息子"がいるから僕はいらないのだろうと、ずっと思っていた。僕はひどく出来の悪い息子で、いつも母さんに迷惑ばかりかけていたから。母さんだって少なからず思っていたに違いない・・・。
 学校にいても、僕はやはり出来が悪かった。そういうやつらとは仲が良かった。おかげで他のやつらとはうまくいかなかった。お決まりのように先生に目をつけられていた。そういうところでしか僕は目立てなくて、構ってもらえなくて。
 ・・・ひどくむなしかった。
 生きているのが辛いとか、苦しいとか。そんな風には思わなかった。でも、もしかしたら生きている意味がわからなくなっていたかもしれない。勉強は出来なかった。けれど、学校はまぁまぁ楽しかった。学校に来れば、仲間がいた。話をするネタがあった。学校のスケジュールは時間に縛られていたけれど、おかげで食事をすることを忘れなくなった。それだけは救いだった。
 とくに数学の授業は嫌いだった。先生はいい人だったけれど、授業はさっぱりだった。あれこれと手を尽くしてくれるけれど、それに応えたくて、でも応えられなくて、僕は空回りしてばかりだった。出来の悪い僕が、それだけでひどく悪いことをしている気がして。出来ないことばかりで、したいことばかりで、僕はいつもあせっていた。
 なんだか味気ない人生だったなぁ。なんて、今頃思い返して見ても、僕にはどうすることも出来ない。
 ・・・あぁ、そうか。だからここに居るのかな。
 自分の人生、満足に生きてきた思い出もないからきっと、成仏できなかったのかもしれない。
 成仏していたら、こんな気持ちにもならなかったのかな。こんな風に自分を振り返ったりしなかったのかな。だからこそ、今こうしているのかな。
 そう思った時、不思議と自分が死んだんだと納得できた。それで良かったとも思わないし、それが悔しいとも思わなかった。
 ただ、自分があんまりにも情けなくて、すこし笑えた。

 ・・・とことん、救われないやつ。



 雨が降っていた。横なぐりの強い雨だった。僕には雨なんて気にならない。体をすり抜けていく雨粒を感じることもない。その雨がどれだけ冷たくても。いつの間にか、教室の窓を叩き付ける程の強い雨になっていた。まるで台風がすぐそばまでやってきている様だった。風雨で荒れるベランダで、僕は飽きもせず教室を覗いている。外の激しさが、ガラス一枚隔てた教室では嘘みたいに静まり返っている。 
 ベランダに立って、教室の中をぼんやりと覗いていると、ふいに妙な感覚に襲われた。誰かの視線を感じた様な気がした。この生活を始めてから、誰かが僕の存在に気付くことなんてなかったから、その妙な感覚が"見られている感じ"なのかどうかはっきりと感じ取ることが出来ない。僕の体には感覚そのものが無くなってしまっているので、そうなのかどうかも怪しいところだけど。
 半信半疑で、それをたぐり寄せるように辺りを見回すと、誰かの視線を見つける。窓際の席にいる女子が、退屈そうに外を覗いていた。視線はぼんやりとしていて僕を捉えているわけではないようだった。
 佐伯・・・。下の名前はなんだったっけ。大人しい子だったから、話もろくにしたことが無い。いつも迷惑をかけていたから、多分嫌われていただろうと思う。
 どうせ、僕が見えていないんだろう。視線をさえぎるようにして、わざとその視界に入ってみた。
 その時だった。
 がたんと教室中に響き渡るような大きな音を立てて、佐伯が席を立った。教室中がいっせいにこちらを振り返る。

 え?
 ・・・気がついた?

 僕は動揺していた。教室の中では、どうせ寝ぼけていたのだろうとからかいの野次が飛んで、教壇に立っていた先生も呆れたように笑っている。佐伯は教室中の野次に押されるように慌てて席に付いて、それからふっと、疑わしげな目で僕を見上げた。ぱちぱちと瞬きをし、ごしごしとあからさまに目をこすり、こちらに真っ青な顔を向ける。そして今度はまっすぐに、僕の目を射抜くように見つめた。
 死んだんじゃ・・・ないの!?
 声にならない佐伯の叫び声が、僕の心に突き刺さる。
 今度は僕が驚いて、飛び上がる。
 慌てて、ベランダの手すりをすり抜けていきそうになる。

 ・・・見えてる?
 本当に!?

「・・・見えてるのか?」
 窓に飛びつくようにして、声をかける。もうずっと言葉なんて発していなかった。誰にも届かないのなら、この喉もくちびるもいらないとさえ思った。そのくちびるが動き、喉を震わせて言葉にする。その言葉は佐伯に届きそうなくらい、僕にははっきりと聞えていた。
 もう一歩踏み込めば教室の中へすりぬけられるという、きわどいところまで顔を寄せる。視界の隅にはガラスの断面が見えていた。
 佐伯はこちらの声が聞えないのか、驚いているだけなのかわからない。ただ口をぱくぱくと動かして僕を見ている。
 やはり、聞えないのか、見えていないのかと、落胆した時。佐伯のくちびるが、何かを言った。
 ・・・たにぐち・・・くん?
 名前を呼ばれて僕の体は震えた。頭のてっぺんからつま先まで、電撃が走ったような衝撃があった。
 ぶるぶると、寒さに震えていた。
 もう一度、佐伯が小さく声に出して僕の名前を呼んだ。
「谷口くん?」
 今度ははっきりと、ぽたりと雨粒が肩に落ちる感触がした。つめたさに、どきりとして飛び上がる。
 ばんっと、身体が弾き飛ばされる衝撃を感じた。まるで突き飛ばされるかのように、窓から僕の身体がはじかれて、どかんとベランダの手すりに背中を打ちつけた。
 痛みが背中を走り、バランスを崩してそこから落ちそうにもなった。

 ・・・感覚が・・・ある?
 
 痛いという感覚も、冷たいも、寒いも感じている。
 今にも落ちていきそうな上半身を持ち上げる。掴んだ手すりが冷えきっていて冷たかった。
 
 ・・・感覚がある!

 窓を触ることが出来る、手すりに寄りかかる感触もある。
 そして、一番違うことは。物体をすり抜けることが出来なくなっていた。
 ・・・あ・・れ?なんでだ?
 僕が困惑している姿が目に入っているのか、佐伯も困ったように僕へ視線を送る。
「なんだ佐伯。外が気になるか?」
 先生に声をかけられて、びくんと肩を震わせる佐伯。
 もう一度、窓に張り付いてみる。窓の感触を感じている。そして、すりぬけることができない物体の堅さも。
 ・・・どうなっちゃったんだ?
 なんでもすりぬける便利な身体に慣れたと思ったら、今度は急に感覚を取り戻してくる。気付けば、がちがちと歯がかみ合わないほどに震えていた。寒い。今までが嘘みたいに急に寒さが襲ってくる。ベランダへ吹き込んでくる雨風が針のように冷たい。これまでに感じたことのない様な、強烈な寒さに教室の中へ避難したいと思っていても、窓には鍵が掛かっていて入れない。
 なんだよ、急に不便になりやがって!
「窓あけてくれ!」
 思わず僕は、窓に飛びついて叫んでいた。その声にびくんと佐伯が反応する。
 聞えている?やっぱり、聞えているんだ!
「聞えてるのか?聞えているなら窓開けてくれよ!寒くてたまらない!」
 うんうん、と驚愕の表情で佐伯はうなずく。恐る恐るといったかんじで、こっそり窓に手を伸ばし、かちりと鍵を開ける。
 やった!
「佐伯!こんなときに窓なんかあけるんじゃない!」
 佐伯の脇を転がるようにして教室へ飛び込んだ。ふと見上げると、佐伯は呆然と立ち尽くしていた。佐伯の吐く息が白く変った。
 吹き込んできた冷たい雨と風に、教室中が騒然となった。
 ・・・嘘みたいだ。
 教室に飛び込んできた僕。死んだはずの僕が、幽霊であるはずの僕が、寒さに震えているのも。佐伯以外は誰も僕に気がつかない。
 やっぱり、僕は幽霊なんだと確信する。
 だけど。何で佐伯には見えているんだろう、なんで生きているみたいに感覚があるんだろう。僕はわけがわからなくなってしまった。
 教室の隅で、しばらくうずくまっていた。全身がぐっしょりと濡れている。濡れた感触も、冷え切った肌も、暖かな教室の空気も。佐伯以外、教室中の誰も気がつかない、うすっぺらな僕も。どれが本当なのか、わからない。
 視線をさまよわせると、僕の机の上の花瓶が目に飛び込んできた。
 ・・・それだけは、紛れもない事実だった。
 まるで生きているみたいに、体中の感覚が戻ってきたところで。今更、どうにでもなるもんじゃないだろうとは思っていた。
 クラス中の非難を受けながら、佐伯は驚いたように目を見開いて僕を見ている。
 谷口君・・・大丈夫?
 佐伯は、ひっそりと声を潜めて確認するように僕を呼んだ。
「くっしゅん」
 生きている体を、感じていた。
 寒くて、痛くて。
 生きている時、こんな感じだったっけ?僕は今、どうなってるんだ?



 死んだ者に、身体は要らない。感覚も要らない。
 生きていくために必要なものは、不必要なんだ。
 死んだ者に、居場所は無い。名前も要らない。
 死ぬということに、死んでから先のことに必要なものなんてない。
 死ぬことは、無に還る事。
 
 そんな事をずっと考えていた。
 どうして自分が死んだのかとか、ずいぶん考えたような気がする。どんなことをどれだけ考えていても、考えるそばからすうっと薄れていって、僕の気持ちとか考えとかは何一つまとまっていかない。こんな風に考えていても、きっとそのうちまっさらになってしまう。同じ事を考え続けているような気もするし、毎度違うような気もする。ただ、はっきりと答が出るのは、僕が死んだという事実に関してだけだ。
 それ以上は、僕の中ではどうでもよくなってしまっているのかもしれない。
 それでも僕は、考えては消えまた考えてと、どこまでもたどり着かない答を探している。それがもどかしいとか、辛いとかそんな風にも感じることが出来なくて、ただ考え続けていた。

 僕は死んでいる。そう納得して、理解していた。
 ・・・つもりだった。
 それでもどこか、僕の命は踏ん切りがつかなくて。どっちつかずのあやふやなままだったから。佐伯が名前を呼ぶことで、それに答えることで。僕の体は生きていた頃を思い出したのかもしれない。死んだということだけに固執して、僕は僕の人生を否定して。ずっとずっとそんなことばかり考えていて、それが苦しくて。
 それなのにその中にしかいられなくて・・・誰にも助けてもらえなくて。
 佐伯が僕に気付いてくれたから、抜け出せた。
 生きていることとは、感じることなのだ。生きていることとは、考えることなのだ。
 必要とされ、必要とし、誰もが孤独であり、誰もが幸せで。
 そして、誰もが愛されて、愛していて。いつも何かを感じ、いつも何かを与え。何かを考え、何かを思う。
 当たり前だからこそ、感じ得ないことはたくさんある。当たり前の中に身を置いていてはわからないことはたくさんある。そんなことも気付かずに、僕は自分ばかり不遇と嘆いていた。
 僕の葬式で、母が人前では泣くまいと歯を食いしばっている姿も、こっそりと泣いている姿も本当はちゃんと、僕の目に入っていたのに。何から目をそらして、何を見ていたんだろう。
 生きているということが、どれだけすばらしいことなのか。死んでみなければわからないなんて、僕は相当馬鹿だ。
 そう僕の中で、はっきりとした時。不思議とこの考えは消えていかないと確信した。
 これが、答なのだと。



    自分の人生、満足に生きてきた思い出もないから
    成仏できなかったのかもしれない



 僕は今、やっと答が出た。ひどく驚かせてしまった佐伯には申し訳ないけれど。
 君が僕を、呼んでくれたから。僕はきっと、迷わずいける。
 感謝してる。


「谷口君、大丈夫?」
 死んだ僕に、気遣ってかけてくれた言葉が死ぬほど嬉しかった。
 

 だからきっと、迷わずに。
 僕は逝ける。



あとがき

 

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