「 運命の恋人 」

 


〜前編〜


「僕には、ずっと好きだった人がいたんだ」
 今までずっと、心の奥深いところに、とても好きだった人が・・・。

 約束の時間に遅れ、しかも喪服姿で現れると、前夫はそう言った。
 別れてから月に一度娘に会えるというこの日に、彼は遅刻し、その上前妻である私にそう言ってすごく切なそうに笑って見せたのだ。娘は待ちくたびれて眠ってしまっている。彼に何かあったのだろうけど、父親に会いたいとずっと楽しみにしていた娘を思うと、一言文句を言ってやりたくて彼に顔を向けた。
 不意に彼も私を見ると、気まずさにちょっと笑って見せた。その切ない笑顔に胸が締め付けられるような気がして、開きかけた口をぎゅっと閉じた。

 ・・・私に、彼をとがめる資格なんて無かった。

 店内で一際目に付く喪服姿に、彼は気を使ってか上着を脱いで隣に置いた。
 喪服姿・・・誰か亡くなったに違いない。きっと、彼にとってとても大切な人が。それを思うと私は言葉に困り、眠る娘に視線をやる。
「・・・時間に遅れるなら、連絡してくれればよかったのに」
 うん。そうだったね。とても小さく、ささやくように言って私に視線を投げる。
 薄い茶色がかった瞳が私の視線を捕らえる。その瞳がふっと潤んだ次の瞬間、彼は涙をこぼした。
 それを見て私はうろたえた。彼の涙を見て、彼の悲しみの深さを知って。
 涙は一筋、二筋と、彼の少しこけた頬に跡を作り、悲しみを縁取っていた。
 こんなにも彼に愛されていた人は、誰なんだろう。そう思うと同時に、今までの生活の中でどれだけ自分は愛されていただろうかと、嫉妬をしていた。
 嘘みたいだわ。自分から離婚届を突き出しておいて。彼に愛される資格も、そんなこと思う資格も無い私が。
 でも・・・。でも、悔しいと思った。彼に涙を流させた誰かに嫉妬していた。そんな自分の気持ちを、彼に知られたくなくて慌てて口を開いた。こんな不自然な想いを今の彼に悟られたくない。
「どうしたの?話してくれなければ判らないわ」
 慌てた口調がありありと自分を表現しているようで嫌だった。けれど、沈黙が続いて再び彼の涙を見ようものなら、またあの考えに引きずられてしまう。とにかく、そんな考え がまとまらないうちに。と、私はしゃべり続けた。
「誰か、知り合いの方でも亡くなったの?あなた大丈夫?・・・あぁ、泣かないで、お願いだから。せっかくユミに会いに来てくれたんだから、そんな顔しないで」
 そんな顔で、私を見ないで・・・。打ちひしがれた切ない瞳で。助けを求めてすがるような瞳で。
 動揺しているのは私だ。彼以上に動揺している。ぎゅっと握ったハンカチを、彼に渡せずイライラしている。言いたいことを言えずにイライラして、動揺して、考えが乱れている。
 ひどく惨めだった。まるで、別れた事を後悔しているような気がした。いや、後悔しているのかも知れない。あの時から、少しだって落ち着いて寝られた日はなかったのだから。
 彼に、全てをうち明けた時から。

 一度、ただ一度だけ、私は彼を裏切った。
 卑怯なことに、それは彼が単身赴任をしている間だった。
 その頃はユミが生まれたばかりだった。そんな時、彼がいつもの人の良さで部下をかばい、上司にたてつき地方に飛ばされた。子供が産まれたばかりだったので、彼は一人で行ってしまった。
 彼としては、私と子供を思ってのことだったのだろう。でも、一人にさせられて心細くて、毎日が不安で仕方がなかった。
 高校時代の仲の良かったグループの一人が、病院を開業したと聞いたので、実家に戻ったのを機にそこに通うようになった。友人の一人、その彼に対して私はひどく複雑な気持ちでいた。異性であったけれど、そんなこと気にせずつき合えた仲間だったし、女友達よりも私のことをわかってくれていた。
 結婚を一番喜んでくれたのも彼だった。そんな彼から、高校時代に私を想っていたのだと告白をされたとき、とても嬉しかった。今更だけれど、もしかしたら彼とならこんな不安な気持ちにはならなかったのではないか。ほんの少しでも、私は夫を否定してしまった。気持ちだけが、どんどん彼に傾いて行くのが自分でもわかった。でも体を許したことはなかった。彼は欲していたけれど、私はそんな気にはなれなかった。心の中で彼に傾倒していく自分のその向こう側で、そんな自分を嫌悪し、後悔していたから。
 けれど、遠く離れて一人きりで、ただ私と娘の為だけに辛い時間を一人で乗り切ろうとしている夫を思うと、私は取り返しのつかないひどいことをしたのだと痛感した。そして、その罪の意識に耐えかねて離婚届を出したのだ。
 彼は優しすぎた。全てを許すなんてそれは優しすぎる。時に残酷な優しさだ。その優しさ故、私を裁こうとはせず、私にそう決断させてしまった自分を、心のどこかで彼は責め続けるのであろう。それがわかっていたから、私達は別れるべきだとそう思ったのだ。 
 それは運命のように思えた。優しすぎる彼に甘えた自分に罰が当たったのだ。
 離婚届にサインをした日から、ずっとさいなまれ続けている後悔と嫌悪とが、今の私の全てだった。自業自得。こんなにも愛していながら、なぜ彼を裏切れたのだろうか。未だに私は、はっきりとした理由を見つけられずに苦しんでいる。
 ただ、これだけは運命だと思いたくはなかった。
 彼を裏切ったことを。


「どうしたの?」
 彼の言葉で急に引き戻された。彼は自分のせいで、私が黙り込んでしまったと思ったらしい。気遣いの言葉も、とても痛く感じてしまう。
 自分の気持ちを振り返って、自分の中にはっきりと後悔の思いが残っているのを見つけてしまった。いつも考えないようにしていた。彼に会うときは、自分の気持ちを悟られないようにと、緊張していた。
「ゴメン。君にまで心配をかけてしまって。僕は大丈夫だよ。気持ちにやっと踏ん切りがついたような気がしているんだ。だから大丈夫。そんな顔しないで。泣かないで、ユミコ」
 優しい言葉をかけられて、私の虚勢はほころび始めていた。必死になってかたくなな態度を通し続ける私に、彼は気を使ってこちらを伺う。彼は優しい。無理して口元に笑顔を作る。目元にたくさんシワを刻んで、柔らかく包み込むように笑って見せた。そうして、瞳の奥の悲しみをどこかに押し込むように、ゆっくりとまばたきをした。
 再び私に向けられた視線には、優しさがにじんでいた。陽に当たって透き通る薄茶の瞳が、まっすぐに私を捕らえ、離さなかった。
 私のために、悲しみを内に押し込んで笑ってくれる。彼は優しい。時にその優しさが、私をひどく惨めな気持ちにさせるのは、私の心の問題だろう。悔しいほどに彼は優しかった。
 彼の優しさに負けないように、私は虚勢を続ける。
「話してちょうだい、何があったのか。話せば少しは落ち着くでしょう?それに、今更、格好つけなければいけない間柄でもないでしょう。泣いてもいいのよ、悲しいときは。無理して、私のためになんか笑わないでいいのよ。無理しなくて、いいの」
 それを聞いて、彼はふっと笑った。
 君らしいね。君らしくて、強くて、とても眩しい。そういって、冷めたコーヒーを口に運んだ。
「さっきはすまない。君にあんなこと言って」
 それが最初の告白を指しているのだと気がつくと、私はちょっと笑った。
「いいのよ、良い妻じゃなかったもの」
 そうじゃないんだ。
 彼はつぶやいて、それから考え込むように少し眉を寄せると、形のいい唇をほころばせて笑った。
「あぁ、なんて事を言ったんだろうな。君に嫌な思いをさせてしまった。君は良い妻だった。僕にはすごく、もったいないくらい良い妻だったよ。今でもあの頃は、僕にとっては少しの後悔もないよ。もちろん、君と結婚したことも。」
 思い出すように、遠い目をしてにこやかに微笑んだ。
 とても幸せたっだ。
「それにしても・・・気が動転していたらしい。いい年して、少年みたいな事を言って恥ずかしいよ」
 そんなこと・・・。
 言いかけて、私は凍り付くような思いだった。あなたらしいじゃない。一途で、誰に対しても深い思いやりで、時に意地っ張りなほど、気持ちを大切にして。それで左遷されたときも、私は「あなたらしい」って、そう言って誉めたでしょう?あの頃は、私もまだ一途にあなただけを想っていたから。
 あの時と同じ気持ちでそういいかけた自分が、たまらなく切なかった。
 あぁ、やっぱり私はこの人を愛しているんだって。
「今日はもう帰ろうか?ユミも疲れて眠ってしまっているし、僕もこんな格好で慌てて来てしまったし。来月があるよ。その時はちゃんと時間を厳守する。ユミに示しがつかないしね」
 そういって、立ち上がりながら伝票を掴もうとした手を、私は慌てて引き留めた。彼は驚いたような顔をして、それからため息越しに私を見た。
 何かあったのは、君の方じゃないのかい?
「そうじゃないのよ、私は大丈夫よ」
 ぶんぶんと大げさに首を振って、私は否定する。このまま彼を帰してはダメだと思った。きっと、一人になればもっと悲しんでしまうに違いない。それに、私は彼から何も聞いていない。だから、もう少し引き留めたかった。でも言葉にならなかった。
 そんな私の様子を見て、彼は、瞳の奥でいたずらっぽく笑って言った。
「ホントは、もう少しコーヒーを飲みたかったんだ。もし君がいいって言うなら、もう少しお付き合いするよ。どうする?」
 彼は立ち上がりかけたまま、私を見つめた。私の返事を待っている。素直じゃない私はいつも、返事に困っていたのを思い出した。彼のいたずらが心地よかった。
「ええ、私もそう思っていたところなの。いいわよ。お付き合いしても」
 視線をかわしてそういうと、彼は嬉しそうに笑った。
 それから、少し視線を伏せて彼はつぶやいた。
「僕の話をしてもいいかい?」
 話さないと、潰されそうなくらい強い思い出なんだ。
 そういって小さくため息をついた彼を、私は可哀想だと思った。これから先、また一人きりで思い出し、悲しんでしまうことを思って。
「いいわ。あなたのその気持ち、半分持ってあげる。少しでも気が楽になるように」
 それから私は、彼の言葉を一字一句思い出せるように、彼の気持ちを寸分違わぬ位に感じられるように、神経を集中して彼の言葉に耳を傾けた。



 

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