〜後編〜


 僕にはずっと好きな人がいたんだ。
 別に、今更改まって言うことではないけれど、僕にはそういう人がいたんだ。でもその人がどこの誰なのか判らないんだ。笑い話のように思われてしまうかも知れない。事実そ うなのだから仕方がない。本人だって、思わず笑いそうなくらい、変な話だと思っている んだから。
 名前も知らない人をずっと思い続けていた。ただ、それだけなんだよ。
 彼女と出会ったのはいつだったか、詳しいことは覚えていない。確か通学の電車の中で見かけたんだと思う。彼女はいつも同じ場所に腰掛けて、本を読んでいた。
 同じ学生だったのか、社会人だったのか、それさえ判断できないくらいのラッシュの中で、彼女はいつも同じ場所にいた。
 ただ残念なことに、もう何十年も昔の話だから、すでに記憶は薄れてしまっていて、彼女がどんな人だったか思い出せないんだ。けれど彼女がいつも腰掛けていた座席のカバーが朱色だったとか、彼女がいつも読んでいた本の表紙の色が目も覚めるほどの青色だったとか。伏せたまつげの長さだとかは、不思議と覚えているんだ。
 何故僕が彼女に惹かれたのか、その理由だけは今でもはっきり覚えているんだ。朝のラッシュの時間、彼女はいつも決まった席に座って本を読んでいる。きっとラッシュの時間よりずっと前から、僕が電車に乗り込む前から、その席で本を読んでいたに違いない。どこらか乗って、どこで降りるのか、それさえ判らなかったけど、飛び込んだ車両で彼女を見つけたとき、僕は彼女に目を奪われていたんだ。
 急がしい時間の中で、彼女だけ別の空間にいるかのように静かに本を読んでいた。彼女を包む空気の静かさ、清らかさに僕は目を奪われていたんだ。
 僕が乗り遅れそうになって慌てて電車に飛び込んでも、余裕を持って電車に乗った時も、かわらず彼女はいつもの席で、自分の世界を広げていた。
 彼女の視線はヒザに載せられた本に奪われたままで、僕に気づきもしなかったんじゃないかな?それだけは、はっきり言えるよ。僕が彼女のことを何も知らないのと同じように、彼女もまた、僕という存在に気づきもしなかったに違いない。
 大学進学を控えて、僕は隣町に引っ越すことになった。それ以来彼女にも会えなくなってしまった。だから、僕の初恋は実らずに終わってしまった。
 どこの誰だかわかっていて、理由があって実らない恋ならば、きっと納得して心の中で思い出となっていたんだろうけど、あまりに理不尽なこの初恋を、僕は終わらせることが出来なかったんだ。きっと、心の奥底で彼女を思い続けていて、僕の初恋はついさっきまで続いていたんだと思う。
 君と結婚した時も、僕さえ知らない深いところでその想いはあったのだと思う。君を心から愛していたし、今だって君がとても愛おしいよ。彼女は、初恋としてまだ生き続けていたけれど。
 君にはわかってもらいたい。君を愛していた気持ちに嘘はないって。今は別れて暮らしているけれど、僕は君を憎んで別れた訳じゃないよ。君以外の誰かを想っていて別れたんじゃない。それだけは、わかってほしい。
 君と別れてまたあの街にもどってきた。彼女のことがあったわけじゃない。生まれ育った街に戻りたくなったんだ。父も母も死んで、あの頃のようには戻れないけれど、僕は一人になって行くところを探したんだ。新しい生活を始める場所を。
 あの頃と同じ電車にも乗ってみたんだ。その時に、僕は初めて彼女のことを思いだした。
 心の奥で固い殻が溶けていくような感じだった。少しずつ形を見せ始めた思い出は、僕を優しく包んでくれた。一人になってしまったけれど、そのかわり心の中に、もう一人誰かが住んでいるような気がしてうれしかったんだ。
 あの頃の初恋が戻ってきて、僕はうれしかった。思わず彼女のいた席に座って、二駅泣いた。あの頃と変わりすぎてしまった自分と、変わらず残っていた想いとに挟まれて、僕の心は締め付けられるようにせつなく、今までの人生で失ってしまった多くのものを恋しく想って泣いたんだ。
 失ってしまった君の事も。

 そして今日、出がけに新聞を読んだら彼女の葬儀の告知が出ていて、気がついたら僕は服を着替えて走り出していた。新聞に載ったモノクロの彼女の写真は、年を重ねても彼女だとはっきり判った。
 初恋を終わらせてきたんだ。僕の心の中できちんと終わりを告げられるように、線香をあげ、彼女のご主人に挨拶をして、そうして僕はぜんぶ終わりにしてきたんだ。
 ほっとしたような寂しいような。ひどく複雑で、今も混乱している。心の中にぽっかり穴が開いてしまって、僕は迷子みたいだよ。
 とても長い初恋だったよ。とても、とても長い、切ない初恋だった。


「運命だったのかも知れないね。そういうすれ違う運命。ただ、一度で良いからこちらを見て欲しかったと思ったよ。せめていつも見つめていた僕に気がついて欲しかった。・・・それも、運命なのかも知れないね」
 そういって彼は唇を噛みしめて、コーヒーカップを睨んだ。
 運命・・・。そうなのだろうか?彼女との恋が実らずに終わって、私と出会って、別れてしまう一連の流れが、彼にとって運命だとしたらそれはとても辛いと思った。彼の時間にいた人はみな、彼から離れてしまう運命なんて。
 彼の運命の恋人は、彼女だったのかも知れないと思った。あの時、彼女が彼に気がついていたら。彼の気持ちを受け止めてくれたら、きっと彼の運命は私と交わりはしなかっただろう。
 運命の人はその時には判らないものだと思った。過ぎてから、失ってからわかってしまうなんて辛すぎる。
「すれ違う運命だなんて、寂しいことを言わないで。もしかしたら・・・」
 はっとして、言葉を止めた。失ってしまった人を運命の恋人だと、そんな無神経なことを今の彼には言えない。
 ただ、私はそう思ったのだ。すれ違いでも、失ってしまっても、運命の人は運命の人なのだ。
 彼の運命の人・・・。私の運命の人は・・・やはり彼だと思う。
 泣くまいとする彼の気持ちを思って、私も奥歯を噛みしめた。ここで私が泣いてしまうわけにはいかない。スカートの上で、私の両手は真っ赤になるほど握りしめていた。
「あぁ、君にそんな顔をさせてしまうなんて。やはり僕はダメな男だ。話すべきではなかったのかも知れない。閉じこめておけば、そのうちどこかへ消えてしまったかも知れないのに、話すことで僕はこの思いを痛いほど実感してしまったよ」
 皮肉げに笑った彼の笑顔が、痛かった。
「そんなことはないわ。そんなこと・・・。私なら大丈夫よ。あなたが泣くのを堪えていたから、私もガマンしたのよ。あなたがそんな考え方をしているから、そうやって人に優しいから、いつまでも柔らかな思い出があなたの中から出ていかないんだわ。優しすぎて、忘れられないのよ。あなたの気持ちの全てを推し量ることは出来ないけれど、あなたの元 妻として、あなたの悲しみを少し肩代わりするくらいは出来ると思うの。だから、私に話 したことを後悔しないで。彼女を忘れずに想っていたことを後悔しないで」
 彼は、じっと私を見つめて話を聞いていた。微動だにせず、ただ私の話にだけ耳を傾け、私の瞳だけを見つめて。そうして話を聞いていた彼は、彼なりの答えを見つけたのだろうか、ちょっと息をついてつぶやいた。
 君はすごいな。
 心の底から吐き出されたような感嘆に、ちょっと戸惑いながら私は尋ねた。
「どこが?私のどこがすごいのよ」
 彼はふっと、目を優しくゆるめて私に言った。
「母親なんだなぁって思ってさ。強くて、優しくて、温かい。・・・どうして僕は、君と別れたんだろうね」
 最後は彼の意地悪なんだと思った。そこに隠れた言葉を見つけたから。
 どうして、君は僕と別れたんだろうね。
 証拠に彼の瞳はいつものいたずらっぽい光を取り戻していた。
「さぁ、自分の胸に聞いてみれば」
 彼はうやうやしく左胸に手を当てると、そっと目を閉じた。そうして長い間、彼はそのまま自分の中に籠もっていて、私は彼が目を開ける前にいなくなってやろうかしらと、何度も思った。
 彼は言いたいのだ。なぜ、自分と離婚したのか。私に尋ねたいのだと思う。
「・・・なんてね。冗談だよ」
「冗談の割に、長い時間を使ったのね」
 何かを見つけて帰ってきたような気がして、その何かが怖くて私は言った。
「ホントは、もうこんな事やめたいっていつも思ってた。家族は一緒に暮らすべきだよ。ユミも、ユキコも、ホントはそう思っているんじゃないかっていつも思っていた。でも、いつも言い出せないんだ。君がひどく怒っているからさ。僕に会うときはいつも。本当に僕のことを嫌いになってしまったのかも知れないと、そう思って口を噤むんだ。でもね、久しぶりに話をして僕は思うんだ。やっぱり君が愛おしいって。君が、思わず肩を抱きたくなるくらいの意地を張っていたりすると、僕は君が愛おしいくてしかたがない。ねぇ、どうだろう。もう一度考え直してみないか?」
 なんて、都合のいい話。
 なんて、自分勝手な話。
 そこには私の気持ちなんて、少しも考えてくれない。どうして私があなたに離婚届を渡したのか、あなたはそれをに気がついたの?それで言ってるの?
 それなのにどうして言えるの?
「自分勝手ね。私がどうしてあなたに離婚届を渡したのか、あなたわかってるでしょう?それならそんなこと言うべきではないわ。言ってはダメなのよ」
 そんなこと言ったら、自己嫌悪がひどくなる。あなたに顔向けが出来なくなる。いい母親でいられなくなる。それらを全部判って言ってくれているの?
 だとしたら、あなたはひどく意地悪だわ。
「わかってるよ。さっき自分の胸に聞いたからね」
 そういって、彼は自嘲的に笑った。
 自分の胸に聞かなくちゃいけないのは私。
 彼はまた、自分のせいにしているんじゃないだろうか。
「・・・ゴメン。悪ふざけが過ぎた。でもね、君と別れたときから、僕の気持ちはかわらないよ。でも君の気持ちは、違う意味で変わらないみたいだったから。とりあえず君の気持ちが落ち着くまで、離れているつもりでいたんだ。」
 とりあえず、というところに引っかかりを感じた。違和感の答えを探そうとして、私の視線は彼とぶつかった。彼は私の顔を見て笑うと、だからね。と意味ありげにつぶやいた。
「まだ、保留にしてある。あの離婚届。ホントはその場で引きちぎりたかったんだけどね、君がどれだけ二人の間に距離を置いても、それでもダメだって思うときが来るかも知れないって思ったから、一時預かっておきました」
 彼は笑ってそう言った。
「出してなかったの?」
 それだけ言うのが精一杯だった。うれしかった。うれしかったけれど、複雑だった。どれだけの勇気でアレを書いたのか。どれほどの決断でそれを決めたのか。それらが全部、彼の手のひらの中で踊らされていたような気がして、悔しかった。
 彼には敵わない。彼は私の全てを握っている。彼は強い。
「もちろん、今からでも遅くはないさ。君の気持ち次第さ。僕はあの頃と少しも変わっていないんだから。そして、僕らの関係もあの頃から少しも変わらない。夫婦なんだよ」
「ひどい人ね。ホントひどい人だわ。あんな話をして、その後でこんな事を言うのね。」
 泣きそうになって、慌てて下を向いた。
 瞬間、彼が立ち上がってテーブル越しに私の肩を掴んだ。がちゃんとカップが倒れる音がして私は顔を上げる。見ると彼のワイシャツにコーヒーのシミが出来ていた。彼の強い力に押されるように、そろそろと視線を彼に戻す。彼は痛いほど真剣な瞳で私を見つめていた。
「そんな風に言うもんじゃないよ。誰だって不安な気持ちになるときがあるよ。その気持ちに負けたらからって、君が後悔することはない。」
 そう強く言い置いて、今度は彼が慌てて視線を逸らした。
「ホント、こんな事、あの話の後に言うべきじゃなかった」
 奥から慌てて店員が走り寄ってきて、テーブルの上を片づける。彼はその間ずっと、落ち着き無く、何度も謝っていた。そんな彼を見ていて、彼と一緒に謝ったりしながら、気持ちがほどけていくのが判った。
 騒ぎで隣で寝ていたユミが起き出して、彼を見つけるとニコニコ笑っていった。
「ユミ、チョコレートパフェが食べたい!」
 テーブルの上に乗り出して言い、店員が慌てて入れてくれた代わりのコーヒーカップを、ひっくり返した。店内には、またしても慌ただしい空気が流れ、あきれた表情の店員が、私達のテーブルにやってきた。
 今度は3人で何度も謝った。
 彼は店長に謝罪し、割ったカップの代金を添えてお金を払ってきた。

「なんてことないよ。ユミの代わりに怒られるのも、パパの大事な役目だからね」
 泣きべそをかくユミに、彼はそういって手を繋いだ。
「ユミが大きくなるまで、迷惑かけてもいいんだぞ。そのかわり程々にな」
 ユミは大きくうなずいて、空いたほうの手で私のスカートを引っ張っていった。
「ほどほどって、なぁに?ほどほどにしたら、パパはおうち帰ってくるの?」
 急に言われて慌てる私に、彼はいたずらっぽく笑って言ったのだ。
「ママも程々にしてくれたら。パパ、帰ってくるよ」
 何を程々にしろと言うのだろうか。
「わかった。ママ、ぷんぷん怒るのほどほどにしようね」
 言われてぎょっとした。そんなにいつもイライラしているのだろうか。そう映っているのだとしたら、とてもショックだ。
「私はこのままで結構!あなたも帰ってらっしゃらなくて結構よ。その口が減るまで」
 そういって、私は言い過ぎたことに気がつく。つい娘と彼に載せられて、あの頃と同じ様な気がして言ってしまった。
 彼はちょっと驚いた顔をして、それからにやりと意味ありげに笑うと言ったのだ。
「運命の恋人って言うのはさ、どこに行ったかわからないような初恋の人や、一瞬の気の迷いで愛した人なんかは含まれなくて、離れても、離れても、くっつく僕らのことを言うのかも知れないよ。なにせ運命の赤い糸が、しぶとく繋がっているんだからね」
 一瞬の気の迷いなんて・・・そんな簡単に片づけないで。それなりに真剣で、ひどく苦しんだんだから。
 そうつぶやきながら歩き出すと、後ろからユミが私を呼び止める。
「やっぱり一番は、パパだよね?」
 そうだろう?
 彼の機嫌のよさそうな声が追いかけてくる。
 彼の欠点は、意地悪で、ちょっとお調子者なところだ。それで、どれだけ救われたか知らないけれど。
 急に肩を引かれてつまづきそうになる。怒って振り返ると、彼が真剣な表情で私を見つめた。
「もう少し時間をかけよう。いつまででも僕は待つよ。ユミの父親は僕一人。君の夫も僕一人。その席を空けておいてくれれば、僕はいつまででも待つよ。運命の赤い糸は、そう簡単に切れやしない。そう信じて、もう少しあの紙切れを大切に保管しておくよ」
 優しすぎるのも、欠点の一つ。 
 そして、意地っ張りで、頑固なのは私の欠点だ。素直に喜んでしまえば、もう少し気持ちが楽になるのかもしれない。
 そっと彼を伺うと彼はユミを肩に乗せて楽しそうだ。
「また今度、来月会おうなぁ。今度は遅刻しないようにするよ。そしたら、うまいパフェ食べようなぁ」
 ほんの少しの距離を、彼との間に保ちながら一緒に歩く。他の人が見たら、私達は仲の良い夫婦に見えるのだろうか。それとも、彼の言うように運命の恋人どうしに見えるのだろうか。だとしたら、彼はまた勝ち誇ったようにいつもの意地悪な笑顔を見せるのだろう。
 私の全てが彼の手のひらで、踊らされ・・・優しさで包まれている。

 これもまた運命なのだとしたら、やはり私の運命の人は彼以外にはいないと思う。
 そして、彼の運命の人は・・・私なのだと思いたい。



 

あとがき

 

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